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障害関連の政策と法律障害者に対する政策フィリピンの障害者に対する政策は、1992年に制定された障害者のマグナカルタ (共和国法7277号・Magna Carta for Disabled Person, RA7277)によって細かく規定されている。本法は、フィリピンで最初の障害者の人権を認めた包括的な法律であり、2007年に共和国法9442号として改訂された。途上国の法律としては比較的早い1990年代前半に、障害者の人権を認めた法律として評価されおり、雇用や雇用奨励金、免税、交通費の半額割引、特殊教育の拡大、投票時の手助け、さらに差別的状況の定義や禁止、点字や手話通訳、ビルのアクセスなどを網羅している。しかし実際には、その実施状況に関しては期待された程の成果を上げていないという評価もある。 同法は、まず障害者を平等な権利を持つフィリピン社会の一員と認め、したがって政府は彼らの福祉の向上および社会参加を支援する義務を負い、障害者リハビリテーション、自立、自助を促進することを規定している。 障害者関連法
フィリピンの障害者関連法の概要と適用、および制定経緯フィリピン障害者関連法の概要とその適用フィリピン初の障害者福祉法は1917年に発効されているが(中西1996:160)、障害者関連法が本格的に整備され始めたのは、1950年代からのようである。1954年には職業教育促進法が制定され、63年に盲教育促進法、65年に特別懸賞宝くじ法、そして82年にはアクセシビリティ法が成立し、89年には白杖法、92年には障害者のマグナカルタへと続いている。森(2010c)によれば、1950年代以降から2009年までの障害者関連法は全部で26法あり(表1)、恐らく、アジア途上国ではもっとも法律が整備されている。
しかし、障害者関連法が多く整備されているからと言って、フィリピンで障害者の社会参加が進んでいるとは言いがたいデータがいくつかある。例えば、2000年のフィリピンの障害者数は全人口の1.2%とされており、WHOが提唱する15%とは大きな開きがある。障害当事者団体もこの1.2%は過小であると批判している(森2010c)。2010年の統計でも1.57%となっているので、統計だけを見るとフィリピンには障害者が多く存在していない。また「障害者のマグナカルタ」では、政府機関の定員の5%を障害者採用枠とするように指示しているが、残念ながら中央政府における障害者の雇用率の平均は2.72%となっており(森2012)、5%にはまったく届いていない。また国家統計局の2000年の国勢調査によれば、5歳以上の障害者のうち小学校に通った経験がある人はわずか46.37%となっており、また障害者の識字率は69.43%で非障害者の90.57%と比べると極端に低くなっている。 森(2010a)の標本調査(標本数403人)によれば、3分の2以上の標本障害者が「障害者のマグナカルタ」を知らないと応えている。また2007年の改正において優遇策が拡充されたことについても、知らない障害者は78.7%にも登った。つまり、多くの障害者は「障害者のマグナカルタ」による恩恵だけでなく、法律そのものすら知らないということである。またこの標本障害者のうち、社会保障を受けるために必要な障害者身分証明書を有している人は半数にも満たなかった。 障害関連法が多くあっても、障害者の社会参加が進まない理由として、法律と現実の諸政策のギャップを森(2010c、2012)は指摘している。つまり「障害者のマグナカルタ」は、アメリカの「障害を持つアメリカ人法」(Americans with Disabilities Act (1990); ADA)の影響を強く受けており 、障害者の権利を保障する条文は含まれているが、それを実施する諸政策が機能しておらず、また財源も確保されていないということである。森(2012:158)は、フィリピンの障害者の雇用状況を分析した上で、「開発途上国の障害者支援は、先進国の法制度の枠組みの直輸入ではなく、やはり各国の経済制度、とくに市場の特徴を把握した上で法制度が整備されなければならない」と批判している。また知花(2009)も、フィリピンの障害関連法は制度として整備されてきたとしながらも、実際には障害者の人権保護が争点となった判例は、それほど多く出されておらず、障害者の人権が司法によって保障されている事例が少ないことを指摘している。 障害者関連法制定の経緯フィリピンでは1987年の共和国憲法に障害者に関して直接触れた条文がある。13条13節の「国は障害者のための社会復帰、自己発展、自律、社会の主流への統合のための特別の期間を設立しなければならない」というものである。知花(2009)によれば、この憲法上の理念は1935年と1973年の憲法から受け継がれてきた理念であり、フィリピンでは、恐らく他のアジア途上国よりも相当早く、1930年代から障害者に対する人権保護が憲法上認められている。 しかしそれが法律に反映されるのは1950年代に入ってからであり、障害者の職業訓練やリハビリテーションの促進に関する法律などは50年代に整備されて行った。1960年代に入ると、63年に盲教育促進法、65年に特別懸賞宝くじ法、68年には特殊教育プログラム法などが制定されている(知花2009)。特別懸賞宝くじ法は、障害者のための行政サービスの財源確保に繋げようとしたものである。ところが、1970年代に入ると障害関連法は一つも制定されておらず、これは国際社会の動向(71年「知的障害者の権利宣言」、75年「障害者の権利宣言」、79年「国際障害者年行動計画」)と比べると相反するものであった(知花2009)。この理由を知花(2009)は、フィリピンの人権委員会に対するインタビューから、「マルコス政権が発足した後は国家の経済発展に主眼が移され、社会福祉サービスの一環として捉えられがちであった障害者問題が国家的なアジェンダとして議会や行政府からの注目を集めなくなった」と述べている。マルコス政権下(1965〜1986年)で制定され、現在でも効力を発揮しているのは、唯一1982年のアクセシビリティ法だけである(知花2009)。 1980年代後半にコラソン・アキノ氏が大統領に就任すると、障害者の人権保障が国家の主要政策や方針の一つと捉え直された(知花2009)。そして、障害者福祉国家委員会(National Council for the Welfare of Disabled Persons, NCWDP)が設置され、また手話通訳者派遣実施の行政令(88年)、白杖法(89年)などが次々と制定されていった。1990年代に入るとその勢いはさらに強まり、92年に「障害者のマグナカルタ」、93年に「アジア太平洋障害者の10年の全国的遵守」、95年に「アクセシビリティ法施行規則」など矢継ぎ早に制定や布告が行われた(知花2009)。 2000年代に入ると、グロリア・アロヨ政権下で大統領府の布告(240号)により、2003年〜2012年を「フィリピンにおける障害者の10年」と設定され、官公庁、政府系企業、地方公共団体に人権保障、能力開発、社会の主流への組み入れなど、障害者の発展に資する行動計画を策定するよう指示が出されている(知花2009)。05年になると「障害者のための経済的自立のためのプログラムのための予算枠」が発令され、国家予算の1%相当額を障害者の福祉や教育に使用することが義務づけられている。06年には「CBR促進・奨励」の行政命令が公布され、CBRの普及と促進が目指されている。07年には「ソーシャル・ワーカーのための大憲章」、そして「障害者のマグナカルタの改正」が行われ、障害関連法の整備が進んでいる(知花2009)。 [*1]知花(2009)は、2008年10月に「障害者のマグナカルタ」成立に尽力したソッコロ・アコスタゲイン議員(ブキノドン州選出)にインタビューし、草案の作成にはアメリカ障害者法(US Public Law on Disability)を参考にしたとの確認を得ている。 補足:初の障害者福祉法成立は1917年と早い。また1950年代以降、2009年までの障害者関連法は26法と他のアジア途上国と比べ非常に多い 。 |