第3章 タイ障害者運動の展開

第1節 タイの障害者と支援策の現状

タイ国家統計局のデータによれば、タイの総人口は約6,556万人[*11](2007年)、うち障害者の人口は187万人、総人口の約2.9%となる。WHOの障害者人口の世界推計は10%である。日本の障害者人口は約723万人(2008年)とされ、総人口の約5.6%である。タイの公式の障害者人口比率は、おそらく実態よりもかなり低く見積もられている可能性がある。また国家障害者エンパワメント事務局によれば、障害者手帳を発給され障害者手当を受給している障害者は全国で1,005,711人であり(2010年11月)、その内訳は以下の通りである。

表1:タイで障害者登録制度に登録されている障害者の数       (単位:人)
地域登録されている障害者の数
 男性女性合計
バンコク20,69415,32836,022
地方536,476433,213969,689
 ・中央と東北121,15595,534216,689
 ・南西201,688168,715370,403
 ・南125,151103,057228,208
 ・北63,11347,575110,688
 ・未記入25,36518,33243,701
577,170448,5411,005,711
(出典:”Key Achievement on Empowerment of Persons with Disabilities; 国家障害者エンパワメント事務局より筆者が抜粋)

また障害者リハビリテーション委員会の報告によれば、障害者で小学校を卒業している割合は39.23%しかなく、34.34%の障害者は教育を全く受けていない。大学を卒業した障害者は僅か0.68%である。就業年齢(15-59歳)における障害者の非雇用率は49.95%に上り、就労している障害者のうち6割以上が自営業であり、7割近い障害者の収入は3,000バーツ(約1万5千円)以下となっている。障害者の48.42%は肢体障害者であり、聴覚障害者は13.83%、知的・学習障害者は13.21%、視覚障害者は10.45%、重複障害者は9.75%、精神もしくは行動障害は3.4%となっている。

障害者に関する主要な法律は、2007年に成立したエンパワメント法(The Persons with Disabilities Empowerment Act B.E.2550 (2007))であり、また同年のタイ国憲法の改定で憲法に障害者に対する差別禁止条項が盛り込まれている。エンパワメント法によって国家障害者エンパワメント委員会が設置され、内閣に障害者に関する政策や計画、プロジェクトなどを提案する機能を有している。委員長は首相が務め、各省庁の事務次官と7人の障害者団体の代表が委員会のメンバーとなっている。委員会の事務局を社会開発人間安全保障省の国家障害者エンパワメント事務局[*12]が務め、事務局の主な仕事は障害者のエンパワメントにおける政策や計画の調整、障害者の権利擁護とエンパワメント、障害者の公共サービスへのアクセスの促進、障害者団体とそのネットワークのエンパワメント、情報通信技術と障害学習センターの開発などである。障害者に対する社会保障として、義務教育や医療費の無料化、福祉機器の提供、毎月500バーツ(約1500円)の生活手当の支給などが、エンパワメント法のもと保障されている。

2006年12月に国連で採択された「障害者の権利条約」を、タイ政府は2008年7月29日に批准しており、アジア途上国の中では比較的早い批准国である。

第2節 1970年代までの障害者支援政策と障害者団体

第1項 福祉政策と関連法制

1970年代までに、法律上で障害者を扱っているものは、「1941年乞食統制法」、「児童の居宅保護に関する社会福祉局規則(1968年)」、「1951年公務員年金法」などである。しかしどの法律にも障害者が誰を指すのか定義がされていない。また公務員欠格条項、義務教育免除、被選挙権欠格条項など、障害者の市民権を認めない規定すら存在している(吉村2009;75)。

第2項 障害者支援施設

障害者の支援施設として、1908年にマッケン・リハビリテーションセンターが設立されている。その後、1941年にブタパーン障害者ホーム、1963年にノンタブリ職業訓練センター、1970年にパクレット障害児ホームなどが公的支援施設として設立されている。民間セクターによる障害者支援は、1966年にグッドウィル・インダストリー、1978年に盲人技能開発センターが設立されている(JICA特定テーマ評価調査報告書2000)。しかし確認できるすべての支援施設の収容者数を合わせてもせいぜい1000人程度で[*13]、障害者全体の人口から考えると、ごく一部の障害者を支援していたに過ぎない。1980年代に入ると、少しずつ障害者収容施設や職業訓練機関、リハビリテーションセンターなどが設立されているが、2001年の労働社会保障省のレポートを見ても、障害者の入所施設は9つ、職業リハビリテーションセンターは8つしか確認することができない。その他、医療リハビリテーション施設として、シリントン・リハビリテーションセンターが1992年に設立されている。

第3項 障害当事者団体

タイ最初の障害当事者団体は、視覚障害者によるバンコク盲人協会で1967年に設立されている。しかし最初はソーシャルクラブのような、視覚障害者による助け合いのグループだった[*14]。2年後の1969年には、ろう学校の卒業生によってタイで最初のろう協会が設立されている。ろう協会は、1981年にサイレント・ワールド・クラフトセンターなる手工芸品の作業所を開設し、ろう者の収入向上に努めているが、やはり最初は小規模な自助グループだった。タイの障害当事者団体が活性化するのは、1980年代に入ってからとなる。

第3節 1980年代初頭から1991年のリハビリテーション法成立まで

1970年代まで、タイでは盲人協会やろう協会などが設立されていたが、障害者の権利を主張したり、政府に社会改革を求めるなどの活動ではなく、相互扶助による自助団体という形式であった。当事者団体が俄かに活動を活性化させたのは、1980年代からである。国際的な障害者運動の広がりによって新しい障害者運動の可能性を見いだしたタイ障害者リーダーは、それまで障害種別毎に活動していた各団体に連帯を呼びかけ、全国規模で組織的な運動を展開して行く。そして障害者のための法律制定に取りかかるのである。

第1項 DPIタイランドの設立

1981年にシンガポールで開催された障害者インターナショナル(Disabled People International: DPI)[*15]の第一回世界会議に、タイからも障害者リーダーが7名参加した。その内の一人が、後の初代DPIタイ代表のナロン・パティバチャラキットである。ナロンは点字図書館で働いていたが、シンガポールに行くまで障害者運動に関わるとは思っていなかった。彼は陸軍士官学校在学中の21歳でリウマチを患い、障害者となった。障害のために士官学校卒業をあきらめ、タイでも優秀なタマサート大学の法学部に入学している。その後、教育学の修士号も取得した彼は、副首相から「家族内で立派に生活している障害者」として表彰されている。この表彰をきっかけに障害者リーダーとして注目を集め、シンガポールのDPI世界会議に参加することとなった。

ナロンは、DPI会議に参加するまで、障害者運動に深く関わると考えていなかった。しかしシンガポールに行って、彼の人生の目標は「他の障害者のために働くこと」に変わった。彼の気持ちを変えた最も大きな要因は、障害者の権利に対する参加者の思いと、これ以上身体を「正常」に近づけなくても良いと発見したことだった。それまで医者の薦めにしたがって手術を繰り返していたナロンにとって、障害を持ったまま質の高い生活を求めようというDPIの考え方は、彼にとって大きな希望となった(吉村2009;79)。

シンガポールで多くの示唆を受け帰国したナロンは、会議に出席した仲間とDPIタイの設立に奔走する。まず1982年に自ら身体障害者協会を設立し、盲人協会やろう協会にも声をかけて、それぞれ国レベルの団体として名称を変更させた。1983年にタイでDPIアジア太平洋会議が開催され、タイ国内から約100人の障害者が参加し、障害者の連合体が必要という機運がタイ障害者に高まった。会議終了後、タイで初めて障害種別を超えた障害者団体の連合体としてタイ障害者協会(Council of Disabled People of Thailand;通称DPIタイ)が設立され、ナロンは初代代表に選ばれた。設立当時の構成団体は、1)タイ盲人協会、2)タイろう協会、3)タイ身体障害者協会、4)タイ知的障害児親の会の4団体である。1999年に自閉症児親の会、が加入している(吉村2009;77)。設立当初の会員は約250名だったが、2000年には1万2千人に増加している。設立時、DPIタイは、1)自分たちで運動の方針を決めること、2)障害者に必要な法律について議論し、障害者のための法律制定を政府に働きかけること、を決定している(吉村2009;80)。ナロンはUSAIDから助成金を得ることに成功し活動を始めた。当時の彼の問題意識は、困窮した障害者の生活を少しでも改善することであった。

第2項 リハビリテーション法の成立

USAIDの支援もあり、DPIタイは、積極的に法律制定のためにロビーイングを開始した。しかし「誰も相手にしてくれなかった」とナロンは政府の反応の冷たさを指摘する。政府の法律検討委員会へ働きかけても、最初はほとんど取り扱って貰えなかった。そこで彼らは、法律の必要性を訴えるキャンペーンを全国で展開していく。年2~3回セミナーを催し、政府職員や有力者もセミナーに招待し地道に活動を広げていった[*16]。地方では若手障害者リーダーが運動に呼応し、バンコクでデモやキャンペーンに参加した。現ナコンパトム自立生活センター所長のティラワットも運動に参加し「当時は、自分たちの問題を解決するには、とにかくまず法律がないといけないと信じていた」と述べている(吉村2009;81)。

しかしそれでも政府からは一向に理解が得られず、DPIタイのメンバーは自分たちで法案を作成することを決意する。1985年頃から地道に勉強会を始め、翌86年には草案を作成し内務省社会福祉局へ持ちんでいる。この時、法案作成に貢献したのが、現タマサート大学法学部教授で視覚障害者のウィリヤ・ナムシリポンパン(Wiriya Namsiripongpan)である。ウィリヤは中学生の時に事故により失明する。その後、バンコク盲学校で働くアメリカ人のコーフィールド女史に出会う。盲人でありながらタイの視覚障害者のために働く彼女を見て、自分も他の視覚障害者のために生きようと決意した。彼は盲学校の支援を受けながら勉強を続けタマサート大学の法学部へ入学している。卒業後、タイの弁護士協会に入会、そしてハーバード大学にも留学している。彼がDPIタイの法案作成に協力したのは、ハーバード大学への留学から帰国した直後であった。DPIタイの法案作成委員会の委員長にもなっている。ウィリヤはタイ各地で開かれたセミナーでも中心的な役割を果たし、各地で障害者に法案の必要性を訴えている。

その一方で、タイ政府も1970年代から障害者を保護する法律の制定にむけ活動している。1976年、当時の首相であるターニン・クライウィシエン内閣は、障害者の関連法案作成のため「障害者の福祉とリハビリテーションに関する委員会」を設置した。内務省社会福祉局が障害問題を管轄していたため、内務大臣が議長を務め、79年に障害者に関する法案を作成している。しかし本法案は、内務省の承認を得られないままお蔵入りし、委員会の活動も徐々に収束してしまった。しかし1980年代に入ると法律制定の動きが再び活性化する。プレーン・ティンスーラノン首相が「障害者リハビリテーション法を制定する」と突然宣言したのだ。この宣言により、委員会は再び法案作成へと動き出す。プレーン首相の宣言の背景には、1981年の国連障害者年、82年の「障害者に関する世界行動計画」、83年から92年の「国連障害者の10年」などの影響があるようだ(吉村2009;76)。

政府の法案は当初、「障害者のために基金を設置する」というのが主な内容だった。しかしDPIタイは、就労における障害者のクォーター制度を強く要求する。当初、委員会はこの要求に否定的だったが、障害者の就労には基本的に賛成していた。なぜなら、福祉制度で手当を払うよりも障害者にも働いてもらった方が財政的には助かるからだ。そこでクォーター制度の代わりに、障害者を雇用する企業への減税を提案している。しかしクォーター制度が必要との信念からDPIタイは粘り強い交渉を続け、結局、クォーター制と減税の両方が法案に挿入された。こうして1989年には、DPIタイが作成した草案を取り入れたリハビリテーション法の法案が完成し、内務省の承認を得るまでに至った。しかし内務省の承認は受けられても、国会での審議は難航した。「政治家は協力してくれなかった」とナロンは語っている[*17]

リハビリテーション法の審議が国会で進まない中、1991年2月にクーデターが勃発する。当時のチャチャイ首相は退陣し、代わりに外交官出身のアナン・パンヤーラチュン(Anand Panyarachun)が首相に就任した。これが法案通過に思わぬ恩恵をもたらした。アナン首相の暫定内閣には、ナロンの知人で、障害者法の成立に協力的な人物が多かった。特にタイのエイズ患者削減を成功させたメチャイ・ビラバイダヤ(Mechai Viravaidya)観光・情報・エイズ大臣は、リハビリテーション法の成立に積極的に協力してくれた。メチャイはアナン首相にリハビリテーション法の成立を働きかけ、1991年11月、暫定議会でタイで初めて障害者を保護する「リハビリテーション法」が誕生する[*18]

第3項 リハビリテーション法の成果と当事者による不満

リハビリテーション法に基づいた1994年の省則によって、初めて障害者はコン・ピカーン(タイ語で機能障害の意)と呼び方が統一され、障害の種類も具体的に規定された。すなわち「視覚障害」「聴覚コミュニケーション障害」「身体及び運動障害」「精神及び言語障害」「知的及び学習障害」と規定された。ここで初めて国によって認定された「障害者」が登場することになった(吉村2009;82)。

そして1993年より、公共保健局による障害者登録制度が開始された。その結果、1997年には13万8263人、2001年には29万6376人、2006年には58万5892人、2011年115万5544人(全国障害者エンパワメント事務局、2011)と登録数が着実に増加している。障害者として登録されると、障害者手帳が発行され、医療費の無料化、車椅子などの福祉器具の給付が受けられる。また障害者手当の申請が認められると毎月500バーツ(約1500円)の給付が受けられるようになった。雇用制度に関しては、従業員200名以上に対し障害者を一人雇用しなければならないクォーター制度が導入された。また障害者の税金控除に関する緊急勅令も出されている(吉村2009;82-83)。

しかし障害者にはあまり恩恵が感じられなかった。法律制定時に、若手障害者リーダーの一人として運動に加わったティラワットは「地域の障害者の生活は何も変わらなかった。障害者登録をしても、国に予算がないと言われれば最低限の手当すらもらえない」と吉村へのインタビューに答えている。またナロンも、社会の障害者に対する差別や偏見はほとんど変わらなかったことを認めている。実際、障害者雇用のクォーター制度が認められたものの、法令は義務ではなく努力目標だった。また障害者手当が始まった当初は、政府に十分な予算がなく支払われないこともあった。

第4節 1991年から2007年のエンパワメント法成立まで

第1項 タイ自立生活センターの設立

2000年代に入ると、タイにも自立生活運動が始まった。国際協力機構(JICA)は、2002年から2005年に渡る3年間の開発支援プロジェクトとしてタイで自立生活研修を実施している。プロジェクトの目標は、タイ国に自立生活センターのリーダーを養成し、チョンブリ、ノンタブリ、ナコンパトムの各県に現存する障害者の自助団体の中に自立生活センターを作り上げることであった。その為、まず1年目は「自立生活プログラムを中心に障害に対する既成概念からの脱却と自己主張できる障害者の育成について」、2年目は「ピアカウンセリングの実施について」、3年目は「自立生活センターの運営について」研修を実施した。講習会は毎年5日間程度行なわれた。本プロジェクトで中心的な役割を担ったのが八王子にあるヒューマンケア協会の重度障害当事者である。日本の重度障害当事者が自立生活運動の専門家としてJICAから派遣され、タイの障害者に対し講義や研修を実施している。障害者自ら専門家として活躍する姿はタイの参加者、特に障害者にとって驚きだったようである。

2002年1月に実施されたバンコクの最初のセミナーには、タイの障害当事者、政府高官、職員、障害者の親、医療リハビリテーションセンターの支援者などおよそ350名が参加した。このセミナーでは特に「自己選択・自己決定する主体的な生活」について講義している。これまで親や周りの支援者に頼ってただ生きてきたタイの障害者にとって、自己選択や自己決定の権利を障害者は持っているという講義は、障害者にとっても支援者である親にとっても衝撃的だったようだ。事実このセミナーでは、親や障害当事者から自立生活運動に対する否定的な意見が多く出された[*19]。しかし研修の最後には、タイの障害者は口々にタイでも自立生活センターの設立が可能だと思うようになった(中西、他2002報告書)。この時、タイの障害当事者の意見をまとめ、自立生活センターの設立に邁進したのが、当時のDPIアジア太平洋事務局、地域開発オフィサーである故トッポン・クルンチットであった。

トッポンは、1959年に生まれ、陸軍士官学校に進学、1984年には学士号を取得している。1986年に交通事故で脊髄に損傷を負い障害者となった。事故から3年後、1989年にタイ身体障害者協会に入り活動を開始し、2年後の91年には理事長に就任した。1995年には、当時建設されていたバンコク交通システムのアクセシビリティに対しデモを実施、すべての駅にエレベーターを設置するよう要求した。またバンコク新空港建設時の2006年には、空港のアクセシビリティを求めて訴訟まで起こしている。1999年にDPIアジア太平洋事務局で地域開発オフィサーに就任し、2007年に亡くなるまで、物理的アクセシビリティの向上と自立生活センターの導入などに尽力している。

トッポンの努力と若手障害者リーダーの協力と理解によって、結局、3年間のプロジェクト終了時には、目標とした3県(チョンブリ、ノンタブリ、ナコンパトム)で自立生活センターが設立されている。プロジェクトで中心的役割を果たしたヒューマンケア協会の中西は「地域の自立生活センターの核作りは、この3年間で完成したと言える」と2005年の報告書で述べている。2009年にはタイの自立生活センターは7ヶ所に増えている。

第2項 エンパワメント法の成立

1991年のリハビリテーション法成立後、法の執行やモニタリングなどを管轄する国家リハビリテーション委員会が設置された。また労働・社会福祉省の元に、リハビリテーション委員会の事務局が設置された。リハビリテーション委員会には、課題別小委員会が設置され、小委員会のひとつでは、不備を補うという観点から、リハビリテーション法の改訂案に関する議論が始まった。

また2001年にタクシン政権が発足すると、障害者団体は「障害に関する首相への諮問委員会」の設置を提案する。当時のリハビリテーション法では、リハビリテーション委員会の委員長は担当省庁の大臣であった。つまり、首相に直接政策を提言するのは非常に困難だった。新しい法案作りには首相への直接的なコネクションが必要と考えた障害者団体は、タクシン首相に代わったことを機に、諮問委員会の設置を提案し認められることとなる。諮問委員会は、全国規模の障害者団体の代表と障害の専門家からなる少人数の委員会であった。リハビリテーション法案の作成に貢献した盲人のウィリヤやタイ盲人協会の会長であるモンティアンが委員会に参加していた。モンティアンは、1965年に生まれ、生まれつき全盲である。チェンマイ大学で英語と哲学を学び、その後、アメリカへ留学。修士号のメジャーは音楽理論、マイナーは政治学だった。1993年に帰国して直ぐに、タイ盲人協会とDPIタイのアドバイザーとなっている。1998年にタイ盲人協会の副会長、2004年には会長に選挙で選ばれている。現在は、タイ上院議員である。

諮問委員会が設置された2001年、国際社会における障害者の権利条約制定の動きにも進展が見られた。同年、メキシコ政府が権利条約の制定を提案、2002年から国連本部で障害者権利条約特別委員会が開催されることとなる。この会議にタイ政府代表として参加したのがモンティアンであった。モンティアンは、「障害に関する首相への諮問委員会」での功績が認められ、タイ政府に代表団の団長に任命されていた[*20]

権利条約特別委員会が国連で毎年開催され、条約制定の話が現実味を帯びてくると、タイの法案作成委員会でもリハビリテーション法の改定ではなく、抜本的な改革つまり障害者の権利を尊重した新しい法律が必要という意見が大勢を占めてきた。モンティアンは、国連本部の特別会議に毎年出席しながら、タイ国内に障害者の権利に関する国際社会の動向をフィードバックしている。そして権利条約が採択される前に、委員会は一度法案を完成させている。本法案は、労働・社会福祉省の承認を受けた後、内閣へと提出[*21]されたが可決には至らなかった。反対意見が多く成立する見通しが立っていなかった。

しかし法案が停滞する中、2006年9月にタイでクーデターが発生する。タクシン首相の外遊時を狙って、陸軍が首相府を占拠、タクシン政権はあっけなく崩壊する。国王に承認された暫定政権は早速、暫定憲法を2006年10月に公布、憲法起草手続きに取りかかっている。この時、新たな憲法の制定には市民の意見を取り入れることを約束した。新しい憲法制定に対する障害者団体の行動は素早かった。まずDPIタイで理事会を開き、憲法の障害者に関する条項について見直しを検討した。そして2007年1月から開かれた一連の「障害者に関する小委員会」で条項の見直しを提案する。差別禁止条項に「障害」という文言を加えることや、アクセシビリティなどの権利に関し、障害者の権利を認めるよう条文を修正することである。この働きかけが功を奏し、新しい憲法に対する障害者の提案はほぼ全面的に認められている(西澤2011)。

次にDPIタイは、暫定政権下での新しい障害者に関する法律の成立にも取りかかっている。リハビリテーション法の時と同様に、暫定政権下で新しい法案を国会に持ち込むことに成功した。この時、法案を審議するために特別委員会が国会の下に設置され、モンティアンが委員会のメンバーとなった。この特別委員会で法案はさらに追加修正されている。というのも、特別委員会が開催されたのは、ちょうど、国連で障害者の権利条約が採択されたあとだった。しかし法案は採択前にすでに完成していた。そこでモンティアンは、権利条約の最終案が採択されたあとに必要な修正を特別委員会で行うことができた[*22]。特別委員会が法律の最終案をまとめたのは2007年7月である。そして同年12月に新しい障害者法としてエンパワメント法が国会で承認を受けている。この時、法案に対する審議はほとんど行われなかった。モンティアン曰く「暫定議会では特に社会的法案に対して審議はほとんど行われない」ということだ。本件に関しては、ウィリヤも同様に「良い法案だ、とは言われたが反対意見は出なかった」と発言をしている[*23]。エンパワメント法の成立を受け、DPIタイは「障害者の権利条約」の批准にも取りかかり、2008年7月29日にタイ政府は権利条約を批准している。

さて今泉の調査によれば、タイではクーデター後の暫定政権時に社会的な法案が多く成立する傾向にあるようだ。暫定政権時の暫定議会はすべての議員が任命され、特に官僚出身者が多い。その時、官僚が用意した法案を、いわゆる選挙で選ばれた政治家の干渉を受けることなく可決することが可能となる。したがって、官僚は暫定議会で多くの法案を成立させようとする。例えば、1991年には120以上、1992年には100以上の法案が可決されているが、1989年と1990年は年間50以下の法案しか可決されていない。また2007年と2008年にも年間100以上の法案が可決されているが、2005年と2006年では、年間50以下の法案しか可決していない(今泉2009;9)。今泉が作成した表を参照すると、クーデター後の暫定政権時には、多くの法案が成立していることが分かる。(表2「図1立法の推移(暫定版)」参照のこと)。つまりタイでは、暫定政権時に官僚が作成した法案を通すことがひとつの方法になっている。

表2 :立法の推移
立法の推移
 (出典:今泉慎也2009;10から転載)

エンパワメント法を実施するため、次は法律に則った省令の制定が必要になった。2011年11月現在ですでに30以上の省令が発令されている[*24]。しかしこの省令の制定では、実は少なからず抵抗が起こっている。特に0.5%から1%へ上がったクォーター制度など障害者雇用に関し企業が反対した[*25]。しかし障害者にとって思いもよらぬ援護射撃があった。当時のアピシット首相である。アピシット首相は、2005年から民主党の党首となり2008年12月に首相に就任している。就任時44才という若さで首相に就任した彼は、イギリスのオックスフォード大学で経済学の修士号を取得している。その彼が、エンパワメント法の実施に非常に熱心だった。多くの企業が反対する中で、アピシット首相は明確に法律の実施を要求し、これが強力な後ろ盾となったことをウィリヤは認めている。モンティアンによれば、アピシット首相は、エンパワメント法で制定された国家障害者エンパワメント委員会(National Committee for Empowerment of Persons with Disabilities)の議長として毎回会議に出席しており、「首相があれほど熱心だとは思っていなかった」とモンティアンも率直に語っている。アピシット首相が障害問題に熱心だった理由は定かではないが、彼の妹が障害者ということも関係しているようである。

*11 Survey on the number of PWDs in Thailand, National Statistical Office, Thailand, 2007
*12 Ministry of Social Development and Human Security, National Office for Empowerment of Persons with Disability (NEP)
*13 パクレットは7~18才までの障害者450人、他は要確認。
*14 2011年12月15日、筆者がバンコクでモンティアンに行ったインタビューから
*15 1981年にシンガポールで結成された国際的な障害者の当事者団体のネットワーク。本部は、カナダにあり、障害者の人権や社会・経済活動への参加を促進している。加盟団体は世界150ヶ国以上に存在する。http://www.dpi.org/より
*16 2011年12月15日、筆者がバンコク近郊でナロンに行ったインタビューから
*17 2011年12月15日、筆者がバンコク近郊でナロンに行ったインタビューから
*18 2011年12月15日、筆者がバンコク近郊でナロンに行ったインタビューから
*19 筆者はこのセミナーに参加しており、会場で直接反対意見を聞いている。
*20 委員会の功績だけでなく、ESCAPの権利条約に関する会議でも彼の発言には大きな影響力があり、この時の功績もタイ政府に認められたと思われる。
*21 この法案が修正案か新しい法案かは定かではない。
*22 2011年12月15日、筆者がバンコクでモンティアンに行ったインタビューから
*23 2011年12月12日、筆者がバンコクでウィリヤに行ったインタビューから
*24 2011年12月15日、筆者がバンコクでモンティアンに行ったインタビューから
*25 2011年12月14,15日筆者がバンコクでモンティアンとウィリヤに行ったインタビューから