第4章 タイ障害者運動の特質

第1節 タイにおける障害の概念

本章では、北側諸国の障害者運動をひとつの枠組みとしてタイ障害者運動の特徴、先進国との違い、またその限界などを考察する。ただしその前段階として、タイ社会における障害の捉え方を第1節で整理しておきたい。特にタイ仏教において障害をどのように捉えているのか整理しておく。

第1項 仏教と障害の概念

「障害は前世の罪であり、障害を罰として生きていかねばならない」とか「前世で罪を犯したために、その罰として子供が障害を持って生まれてきた」とか、タイ社会の障害の捉え方をこのように紹介する文献は多い。例えば、JICAの2000年のタイ障害者に関する報告書でも「タイ仏教では、運命の善し悪しは本人の「前世の行い」によって決まると信じられており、障害者についても本人の前世の悪行の結果であるという認識が、特に農村部で強い」という記述がある。また中西の2009年の論文にも、障害者リーダーであるトッポンの言葉として「タイは上座部仏教国であり、障害は前世に罪を犯した人が現世でつぐないのために負わされていると見られている」という記述がある。

タイでは国民の約93%が仏教徒であり、仏教寺院数は全国で約3万、僧侶は約29万人いる(西川・野田2001)。タイ仏教は東南アジアで広く信仰されている上座部仏教なので、もしタイで「障害が前世の悪行の結果」と捉えているなら、この考えは東南アジアの仏教国すべてに通じる考えのはずである。もしこの障害の捉え方がタイ社会一般に認められるなら、「障害の社会モデル」によれば、「タイで障害者を創り出しているのは仏教だ」と言っても過言ではないだろう。

1)仏教で正すのは現世の行い、前世や来世ではない

バンコク中心部から車で30分、都会の喧噪から抜けきらない場所にサンサニー尼僧(Ven. Mae Chee Sansanee Sthirasuta)の瞑想道場サティアンダンマサタン寺はある。一歩門をくぐるだけで別世界のような静寂が身を包み、すでに心が洗われたような気持ちになる。週末には多くの親子が仏教日曜学校に参加するらしいが、平日は参拝者もまばらであった。サンサニー尼僧は、タイでも有名な開発僧であり、NGO等と連携しながら家庭崩壊などによって不遇な立場に置かれた女性や子供たちの、仏教に根ざしたエンパワメントに取り組んでおり、視覚障害児やポリオによる障害者のエンパワメント活動も実施している(西川・野田2001;196)。女性の出家者によるこのような開発プログラムはタイでも非常に珍しいそうだ。

「タイでは仏教の教えで、障害が前世の罪や罰であると言われていますが、それは本当ですか?」という筆者の質問に彼女はたとえ話も交えながら明確に答えてくれた。「仏教で大切なことは「現世の行い」であり「前世」ではない。現世で正しい行為をするために、他人に悪いことをすると自分にも同様に悪いことが返ってくる、という教えはあるが、前世の悪行で現世を責めることはしない。前世の悪行を責めると現世の人生を壊すことになる。つまり障害を罪として責めてもどうしようもない」と語ってくれた[*26]

また別の著名な開発僧であるパイサル僧(Phra Paisal Visalo)も「現世を考えるのが仏教である」と丁寧に説明してくれた[*27]。パイサル僧は、仏門に入り28年、多くの信徒から尊敬されている。タマサート大学を卒業したパイサル僧は英語にも堪能で、日本人を含む多くの外国人僧侶も指導している。「悪行をする。例えば、酔っ払い運転をして事故を起こすことによって障害者になる、ということがある。このようなたとえ話をするお坊さんがいる」。「仏教で悪行とは5つ[*28]あり、その悪行に対する酬いとして自分にも同じことが起こる、という教えがある。例えば相手の健康を損なえば自分の健康も損なう。また現世で相手を障害者にすれば来世で自分も障害者になるという話をする。しかし障害は1つのたとえでしかないし、またそれは「現世の行いを正すため」である。前世の悪行により現世で障害者になったという話ではない」。

サンサニー尼僧もパイサル僧も、「障害者として生まれたからといって幸せになれない、と仏教は教えていない」と強調していた。「体は変えられない、だから体には囚われない。障害を含み、現状を受入れた上で心を解放することが仏教の教えである。もちろん障害者も心を解放することができる」。

2)障害に対する社会の理解

しかし仏教で「障害は前世の罪だとは教えていない」としても、一般的には「障害を罪や罰」と捉えている人が多いのではないか。なぜなら、パイサル僧のたとえ話には、はっきりと障害者が登場するし、いくら「現世」と強調しても「悪いことをすれば障害者になる」というたとえ話をする以上、間違った理解をする人は多いのではなかろうか。現に、タイの障害者に幼少の体験を聞くと「近くのお寺にはつんぼ[*29]の絵があって、彼は悪行によって耳が聞こえなくなった、と書いてあった」と話してくれた[*30]。彼は現在、若手障害者リーダーとして活躍しているが、幼い頃は障害で苦労している。幼少時代のポリオで足に障害を負った彼を見て両親は離婚した上に、彼を見捨てて家を出てしまった。祖父母に育てられていた彼を、数年後、母親が引き取ったが、教育しても仕方がないと言って学校にも通わせてもらえなかった。また別の障害を持つ女性の話でも、幼い頃からお坊さんや周りの人々、またテレビでも障害は何らかの罪や罰であると言われて育ってきたという。「障害者は前世の罪を悔い改めて生きていかなければならない」と近所の人に直接言われたことも何度かあった[*31]。二人の体験談をパイサル僧に話すと、「タイで現世の不幸を前世のせいにする人は多い」と答えてくれた。「だから、障害という現世の不幸を前世のせいにするひとがいる。また僧侶の中には安易に障害をたとえ話に使う人がいる。その時、前世の罪として現世の障害を理解する人が多い」。ただし、とパイサル僧は続ける、「それは間違った理解だ。仏典を読めば障害が罪だと言っていないことが分かる。タイ人の多くは誤解している」と答えた。

3)当事者による経験と実践

では当の障害者は「障害を罪と捉える」タイ社会についてどう思っているのだろうか。たとえそれが、パイサル僧が言うように間違った理解だとしても、社会がそう捉えているのなら障害者にとって深刻な差別である。ナコンパトム県で自立生活センターを運営しているティラワット所長とサンヤ・プロジェクト・コーディネーターに話を伺った。すると両人とも「障害は前世の罪である、という教えを信じています」とすがすがしい顔で答えた[*32]

ティラワットは、タイの名門チュラロンコン大学の出身であり、ラグビーの練習中に首の骨を折り21歳の時に障害者となった。約6ヶ月間入院し、自宅で1年間のリハビリを終えると、バンコクの中心街にある国立競技場前でTシャツなどを販売し生計を立てていた。1980年代に、リハビリテーション法の成立にむけ活動していたDPIタイにも協力し、法律の必要性を説くために新聞や雑誌に投稿している。リハビリテーション法の成立には大きな期待をしていたが、期待は大きく裏切られた。法律では重度障害者は救えないと感じ、自立生活研修に参加した。現在はセンター長になっている。彼は障害を負ったことで、自分の人生について深く考えるようになった。その時、仏教についても独学で勉強した。そのせいか「障害は前世の罪です」という言葉に迷いが感じられなかった。だがすでに、筆者は僧侶二人から「仏教で障害は罪と教えてはいない」という話を聞いていた。その話を彼にすると、「仏教で大切なことは「現世の行い」です。現世で正しいことをするために仏教は存在する、と私も信じています」。「パイサル僧やサンサニー尼僧は、障害をたとえ話しに悔い改めの話はほとんどしないでしょう。障害をたとえ話にするお坊さんは多いが、彼らのように仏教を正しく理解している人はそんな話はしない」と答えてくれた。つまり、パイサル僧やサンサニー尼僧の言うことは正しいが、それでも自分は「障害を罪」として受け止めている、ということだった。その理由を尋ねると「現世で正しい行いをするためです。私は他の障害者を助けたい」と答えた。

サンヤもティラワットの考えに同意した。サンヤは、ナコンパトム自立生活センターのマネージャーである。タイで海産物を扱う日本の会社に勤めていた29歳の時に、交通事故で障害者となっている。チョンブリ自立生活センターで初めて自立生活について学び、それから他の障害者も助けたいと思った。彼は、12歳から4年間出家している。タイでは、男性が若い頃に出家することが一般的であり、それ自体珍しいことではないが、4年間は比較的長い方であり、この時に仏教について学んだということだ。彼は「障害を罪として受入れることは障害者にとって大切だ」と考えている。その理由は「仏教を勉強することで心が安定するから」ということだった。ティラワットとサンヤによれば、「心と体を分け、心を解放してくれるのが仏教である」。例えば自分が障害を負ったとき、「最初、なぜ自分が障害者になったのか自問自答した。周りの人は自分を見て何もできないと言っていた。自分も最初は、心と体を分けて考えることができなかったので、自分には何もできないと思っていた。でも心と体(つまり障害)を分けて考えることで、障害があるありのままの自分を受入れ、新たな人生を探すことができた。この心と体を分ける考えは、仏教の教えである」と答えた。つまり彼らは、「障害を前世の罪」として受入れているが、「それは障害を苦難とする負の発想ではなくて、罪を受け入れることで、ありのままの自分(障害)を受入れる。そして自分(障害)を受け入れられれば、心が解放される」と考えている。

この仏教の教えは「障害者の自立生活にも通じる」と彼らは考えている。サンヤによれば、自立生活で障害を受入れる5つのステップがある。5つのステップとは、障害を負ったショック、否定、受容、分析、対策という自立生活の基本として障害を受入れる方法である。この時、「仏教の教えが非常に大切だ」とサンヤは答えている。タイ人にとって、「障害を負った自分を受け入れるとき、障害を見るのではなく心を見るのである、という仏教の教えは受け入れやすい」と彼は答えた。

DPIアジア太平洋事務局の開発オフィサーであるサワラックも、ティラワットとサンヤに同調し「仏教の教えは障害者の自立生活に通じる」と考えている[*33]。彼女は自分の経験から「障害者が自立するとき、エンパワメントされる時、仏教の教えが非常に大切だ」と信じている。「自立生活運動から教わった障害者のエンパワメントは、まさに自分が実践してきた心の解放であり、仏教の教えとも通じるものがある」と筆者のインタビューに答えている。彼女は27歳の時に結婚式の準備で実家に帰る途中、婚約者の運転する車で事故に遭い障害者となった。3ヶ月の入院中、医者は障害について何も話してくれなかった。自分は歩けるようになると信じていた。しかし退院しても全く回復せず、このまま歩けなくなるのではという恐怖に襲われた。その後、評判の良い医者を両親が探してくれて、単身チェンマイに向かった。この時の医者が、彼女に生きる希望を与えてくれた。医者はまず、彼女に仏教によるメディテーションを勧めた。心を落ち着かせ障害を前向きに捉える。つまり今の体のままで幸せになれる、という考え方を教えてくれた。そして彼女は、自ら自立生活を実践するために一人暮らしを始めた。彼女は3ヶ月の入院中に、テレビで障害者の自立生活について放映していたのを見ていた。自分にもできると思い、挑戦してみたのだ。まずリハビリテーションを自分の仕事だと思って、アパートから病院まで毎日通った。リハビリは苦しかったが、医者や障害をもつ看護婦に励まされ、1年3ヶ月後には補助器具を使って歩けるようになった。その後、JICAが支援するアジア太平洋障害者センター(Asia-Pacific Development Center on Disability : APCD)[*34]で働き、この時、自立生活研修を始めて正式に受講した。そして自分の経験と自立生活運動のエンパワメントが似ていることに気付いた。

第2項 障害者の権利と障害の社会モデル

仏教における障害の捉え方、タイ社会における障害の間違った捉え方、そして仏教と障害者のエンパワメントの関係性について、前項までである程度整理することができた。では、「障害者の権利」と「障害の社会モデル」について、タイの障害者はどう理解しているのだろうか。

モンティアンは、障害の社会モデルについて「タイの障害者は、自己体験から社会的な差別を感じており、社会モデルを実体験として理解している。しかし理論を学んだ訳ではないので、説明することはできない」と筆者のインタビューに答えている[*35]。確かに、タイ障害者リーダーの重鎮であるナロンやウィリヤは、筆者が「タイで障害の社会モデルは普及しているか、タイ人は社会モデルをどのように理解しているのか」等の質問に非常に曖昧に返答している。他方、若手障害者リーダーのサワンとタムは、もう少し具体的な自己体験を話してくれた。サワンは、幼い頃ポリオで障害者になっている。レデンプトール職業訓練校を卒業し2003年3月からAPCDで働いている。障害の社会モデルについて理解したのは2005年、マレーシアの障害平等研修だった[*36]。彼は、社会モデルを提唱するAPCDで2年近くも働いていたが、社会モデルという考え方を正確には理解していなかった。「障害の問題は社会にある」とだけ言われても、ポリオによって車いす生活を余儀なくされている自分には、素直に納得できるものではなかった。「社会が変われば障害問題は軽減される」「社会を変えるために障害者は権利を主張している」ということを、研修を通じて初めて理解した。タムは、タイ東北地方のシーサケット出身で、幼い頃ポリオで障害者になった。大学卒業後、バンコクのDPIアジア太平洋事務局で働いている。その時、地域開発オフィサーだった故トッポンから初めて障害者の権利や社会モデルについて教わった。サワンもタムも、社会モデルを知るまで、障害があるから学校に行けない、就職もできないと思っていた。障害を自分の責任だと思っていたそうだ。しかし社会の問題だと理解できて初めて心が解放され、自尊心を得ることができたと答えている。

自立生活研修から「障害者の権利」や「障害の社会モデル」を学んだ障害者も多い。例えば、前述したティラワットやサンヤ、そしてサワラックである。ティラワットは中西から自立生活を通し「障害者の権利」について学んでいる。その時の習った権利とは「他の人と同様に普通に生きる権利」といえる。なぜならティラワットは「何処でも歩ける権利、自分の能力を生かすために介助を受けながら生きる権利、家族を持つ、教育を受ける、医療を受ける権利、などを習った」と筆者のインタビュー[*37]に答えている。

障害者リーダーの故トッポンは「障害者の権利」を「障害者が社会改革を主張する権利」と捉えているようだ。なぜなら、彼は生前最後のスピーチで「チャリティーベースでは改革は進まない。チャリティーベースだと、資源と慈善がなくなったら社会改革は終わってしまう。政府がチャリティーで改革を進めると、予算が終わったら改革は終了する。だから福祉サービスは権利ベースで提供されるべきだ。それに、チャリティベースだと、障害者も改革を強く要求できない。社会改革を実行するには権利ベースで改革を要求し、障害者も簡単に妥協してはいけない」と説いている[*38]

第2節 タイ障害者運動の成果と限界

第1項 社会への告発

1980年代のタイ障害者運動の初期には、イギリスや日本の障害者運動のように既存社会に対する激しい批判や告発、抵抗運動などがほとんど見られなかった。1970年代まで、タイの障害者支援施設は、公的施設が4ヶ所、民間施設は2ヶ所しか存在していない。2001年の政府レポートですら、障害者の入所施設は9ヶ所、職業リハビリテーション施設が8ヶ所、医療リハビリテーション施設は1ヶ所である。また1970年代までの法律で、障害者に言及しているものも3つと少なかった。その法律も、障害者の福祉制度を支えるものでもなく、障害者の定義すらされていなかった。つまりタイ障害者運動が始動する1980年代前半に、タイには福祉サービスがほとんど存在していなかったため、批判する対象がそもそも限定されていた。

「障害の社会モデル」を基礎とした障害者運動がタイで誕生したのは、1983年のDPIタイの設立からである。この時初めて障害種別を越えた全国的な障害者の運動体が誕生した。そして障害者の自己決定を尊重し法律の制定を求める運動が始まっている。DPIタイ設立のきっかけは、国際的な障害当事者運動の広がりであり、タイの障害者は、福祉制度やサービスがないことに不満を感じ運動を始めた。彼らは、障害者の権利として支援を要求できることを、シンガポールのDPI設立会議から学んでいる。

第2項 誰を相手に戦ったのか

1) 無策な政府

1970年代まで福祉制度やサービスがほとんどなかったので、タイでは医者や福祉の専門家が少なかった。したがってタイ障害者運動が1980年代に始動したときに、真っ先に運動の標的になったのは、これまでほとんど障害者支援を実施してこなかったタイ政府だった。DPIタイの最初の活動目標は、障害者の生活を保護する法律の制定である。これまでなんら福祉サービスが存在しないことに対する不満の表れであった。しかしタイの障害者運動は、政府を激しく糾弾し権利を主張するというよりも、セミナーやワークショップを通して政治家や官僚との対話を基本路線として進めている。デモやキャンペーンも実施されたが、アメリカや日本のように事務所の占拠やバスの籠城などは見られなかった。

2) 差別と偏見

タイ障害者運動のもう一つの標的は、障害者に対する差別や偏見と考えられる。北側諸国のように、一般社会からの周辺化や不平等に対する差別というよりも、タイ障害者運動が標的にしたのは、「障害は前世の罪である」という社会通念に対してであった。しかしこの社会通念は、本論文で明らかにしたように、仏教の教えから来ているものではない。仏教を誤って理解した、誤解に基づく社会通念であった。ただ誤解に基づいた社会通念であっても、多くの人が「障害を罪」と捉えているのであれば、障害者にとって深刻な差別である。したがって障害者団体は、この差別を払拭しなければならなかった。

第3項 タイ自立生活運動の特徴

タイの自立生活センターは、イギリスや日本のように施設の障害者が地域に移行する形で誕生したわけでもなく、アメリカのように障害学生の支援の延長として誕生したわけでもなかった。北側諸国の影響、特に日本からの国際協力によって導入されたのであった。なかでも2002~2005年に実施されたJICA支援による自立生活プログラム研修は、3つの自立生活センターを設立させるという大きな成果を残し、タイの自立生活運動の礎となっている。この3年に渡る研修で、ヒューマンケア協会は、1年目に「障害に対する既成概念からの脱却と自己主張できる障害者の育成について」、2年目に「ピア・カウンセリングについて」、3年目に「自立生活センターの運営について」教えている。この時、タイ側から「日本のような自立生活センターをタイで実施することは困難だ」という意見もあったが、タイ障害者リーダーの説得や日本の障害者講師からの惜しみない技術移転によって、タイの障害者は徐々に自信をつけていった。

また日本やイギリスでは、「施設から出たい」「自分の生活は自分で決めたい」という障害者の切実な願いが自立生活への動機となっているが、タイでは、「先進国のような自立生活がタイのような途上国でも実現できるのか、できないのか」という迷いが障害者に見られる。だからタイ国内の障害者リーダーと日本の障害者講師たちは、自信のないタイの障害者を説得しなければならなかったし、彼らを結束させる必要があった。タイの障害者の中には、ティワラットのように法律では何も変わらないことに気づいて自立生活運動にかかわった障害者もいたので、彼らを新しいリーダーとして、タイ障害者の結束を促した。

タイの自立生活センターは、2009年までに7つ設立されているが、残念ながら、それ以上の広がりは見せていない。普及に関するタイ自立生活センターと北側諸国の違いは、福祉制度にあると思われる。タイでは、障害者に毎月500バーツ(約1500円)の生活補助が支給されているが、それ以外に介助費用を賄う手立てがなく、自分で働くか、家族やボランティアに頼るしか方法がない。また自立生活センターに対する政府からの補助金もほとんど支給されていない。ナコンパトムなど一部の地方自治体から自立生活センターに補助金が支給されているが、まだ十分な運営資金とは言いがたい。北側諸国のように、既存の福祉制度である職業リハビリテーション資金や施設運営費を自立生活センターに割り当てる、という方法をとれないタイの自立生活センターでは、全く新しい福祉制度を構築する必要があり、まだそれが上手くいっていない。

最後に、「仏教の心の解放と自立生活の障害の受入れに共通点がある」とする、タイの障害者リーダーの障害観は、タイ独自のものといえよう。自立生活における障害観や権利意識は、欧米の思想に強い影響力を受けている。例えばイギリスの障害者は、地域で暮らす権利、自分の生活を自分で決める権利を主張して、自立生活運動を展開しているし、日本においても同様の傾向が見られる。もちろん、日本の自立生活研修をうけて成長したタイの自立生活センターには、同様の権利意識も存在するが、タイ仏教徒としての障害観がそこに混在していた。彼らにとって仏教の教えは否定すべき考えではなく、むしろ積極的に取り入れるべき考えであった。「障害を罪として受入れ、心の解放に繋げる」タイの障害観は、タイ独自の自立生活モデルといえるのではないか。

第4項 法律の制定を中心とした障害者運動

1)法律制定から始まり、権利条約批准まで成し遂げた障害者運動

国際的な障害者運動の影響を受け発足したDPIタイの最初の活動は、障害者の生活を保護する法律の制定であった。それまでまともな社会福祉制度が存在しなかったタイの障害者にとって、法律の制定は明確な目標となった。DPIタイはこの時タイ各地でセミナーやワークショップを開催し、障害者の法律に対する理解を深めると共に、障害者の生活を守る法律が必要だ、ということを社会と政府に訴えている。それでも政府が動かないと分かると、自分たちで法案を作成し政府に提出するまでに至った。イギリスや日本では、既存社会に対する不満から障害者運動が始まっているが、タイでは、障害者運動の初期段階で、法律の制定に関与しているのである。1991年にタイで初めて障害者のための法律が成立するまで、タイの障害者運動は法律の制定を中心に行われた。

タイの障害者運動が社会改革や権利主張、自立生活運動へと展開されるのは、1991年のリハビリテーション法成立後であった。法律が施行されても、ほとんどなにも変わらぬ社会状況や医療モデルに立脚した法律では、障害者の権利を守ることができないと気づいた障害者は、物理・情報アクセスビリテーの要求や自立生活センターの設立などに活動を広げていった。また1990年代以降、「アジア太平洋障害者の10年」や、日本を初めとする諸外国の社会モデルを基盤とした障害者支援の増加などにより、タイ政府にも障害者団体にも「障害者の権利」意識が次第に強まっていく。政府と障害者団体が協力してリハビリテーション法の改定作業に取りかかったのは、このような社会背景によるものであった。さらに2000年代に入ると、国際連合における障害者の権利条約の動きが本格化し、タイ政府は障害当事者を政府代表として登用した。この時、政府代表を務めた視覚障害者のモンティアンは国際会議での発言を全任されている。そして権利条約採択の機運が高まると共に、「リハビリテーション法の改定」から、障害の社会モデルに立脚した「新しい法律の制定へ」と目標が変わっていった。その後2006年12月に権利条約が採択されると、2007年に社会モデルに則った憲法の改定とエンパワメント法の成立に成功するのである。障害者団体は、その勢いのまま2008年7月に権利条約の批准にも成功している。

2)成功の要因

2007年から08年にかけて、憲法の改定、法律の制定、さらに権利条約の批准まで一気に成し遂げることができた要因は、1)障害者団体の戦略的な行動、2)政府代表として障害当事者を登用したタイ政府の判断、3)クーデターの勃発というタイ社会特有の政治状況、などにあると思われる。タイ障害者団体は、90年代後半から権利条約批准まで実に戦略的に行動している。2001年、タクシン政権での首相への障害諮問委員会の設置は、その後の成功の大きな要因となった。障害当事者団体の代表と、僅かな非障害者による少人数制の諮問委員会で実力が認められたモンティアンは、権利条約の国連特別委員会でタイ政府の代表を任されることになる。国連の特別委員会では、障害者団体の参加が認められるとともに、政府代表団の一員に障害当事者含めることが奨励されていたが、障害当事者が「政府代表」として出席することは極めて珍しかった(長瀬2008;23)。モンティアンは、タイ政府代表として特別委員会でも大きな貢献を果たしている。タイ政府代表が強力に推し進めた条約を、タイ政府が批准しないという選択肢は、政府として取りづらくなるわけだが、タイ政府が最初から条約を批准するつもりだったのかどうかは定かではない。事実、タクシン政権下でエンパワメント法は反対され成立しておらず、国内法の整備は遅々として進んでいなかった。障害者団体は地道に法案を修正し、国会で協議を進めながら、社会啓発などを続ける必要があった。2007年のクーデターがなければ、エンパワメント法の成立は困難であっただろうし、権利条約の批准も同様に困難だったと思われる。

3)クーデターという特殊な要因

しかしなんと言ってもタイ障害者運動の法律制定における最大の特徴は、クーデター後の暫定政権下で成立している点であろう。1991年のリハビリテーション法と2007年のエンパワメント法の両方が暫定政権下で成立していることを考えると、これは単なる偶然とは言いがたい。当然、障害者団体はクーデターを予測することはできなかっただろうし、同様の手法が今後も通用するとは思えないし、暫定政権下での成立は、決して理想的な方法とは呼べないだろう。しかしそれでも法律を2つ成立させたタイ障害者団体の功績は大きい。彼らの最大の功績は、クーデターというチャンスを逃さなかったことだろう。そして当然、制定に向けた準備を日頃から進めてきた結果とも言える。他国では真似できない手法だと思われる。

4)法制定に対する政府の反応と理解

リハビリテーション法制定時の障害者団体に対するタイ政府の反応は、非協力的なものであった。障害者団体の意見など聞くまでもないという雰囲気があった。しかし障害者自らが作った法案によって、政府の障害者に対する評価が徐々に変わってきている。結局、リハビリテーション法の制定時には、障害者の意見を取り入れるようになった。またエンパワメント法の制定時には、正式な法案作成の委員会メンバーとして、障害者団体の代表が参加している。障害者団体の代表をメンバーとする「首相への諮問委員会」の設置も認められ、権利条約制定の国連特別委員会にも、障害当事者が政府代表として参加している。しかしそれにもかからず、リハビリテーション法もエンパワメント法も、国会で反対を受け法律は成立していない。両法案は、クーデター時の暫定議会を利用するしかなかった。暫定議会は、すべての議員が任命議員なので、いわゆる選挙で選ばれた政治家の干渉を受けることなく、法案が成立しやすい。タイの障害者法であるリハビリテーション法とエンパワメント法は、この暫定議会を利用して成立している。つまり、障害者の権利や実力を認め、障害者を積極的に活用するグループが、タイの官僚や支援関係者の中に存在するが、おそらく、一般の政治家、他省庁の官僚、また社会全般において、障害者の権利や差別に対する理解は浸透しておらず、「障害の社会モデル」という考え方も十分には理解されていないと思われる。

第5項 タイ障害者運動の展開

イギリス、アメリカ、日本では、各国に独自性が見られるものの、障害者運動の展開として、1)既存社会の障害者に対する差別や偏見、および健常者によって創られた福祉制度に対する反発、社会への告発、2)障害の社会モデルに則った社会改革の要求と自立生活運動の発展、3)政策への関与と法律の制定、という共通した過程を経ている。一方、タイにおいては、「法律の制定」が最初の障害者運動の目標となっている。国際的な障害者運動の影響を受け始動したタイの障害者運動は、海外から社会改革を要求する障害者の権利を学んでいる。福祉サービスがほとんど存在していないタイ社会において、生活が困窮する障害者を救いたいという欲求から、障害者団体はまず法律の制定を目指したのである。この点は、北側諸国の障害者運動と大きく異なる点である。

一方で、社会改革の要求と自立生活運動の発展など、3ヶ国と似たような一面も見せている。自立生活運動も海外から教えられたものであるが、タイ独自の障害観と相まって、また重度障害者を救う方法としてタイ障害者に理解され導入が進んだ。また1991年のリハビリテーション法では、障害者の権利が守られないばかりか、教育や就労、環境、情報などへの障害者のアクセスも保障されず不備が多かったため、物理的アクセシビリティーや障害者差別に対するデモやキャンペーン、ワークショップなどが実施されている。一度制定された法律に不備があり、改めて障害者の権利に則った法律を求め運動を発展させて行く過程は、アメリカの障害者運動と少し似ているところがある。

いずれにしろタイ障害者運動では、福祉制度に対する反発や批判、社会への告発というイギリスや日本に見られたような抵抗運動が、運動の始まりには見られなかった。デモや抵抗運動がなかったわけではないが、法律制定に対する障害者運動は対話路線を基調としていた。

第6項 「障害の社会モデル」に対する理解

タイにおける「障害の社会モデル」に対する障害者の理解は、非常に曖昧なものであった。今回の調査で、タイ障害者の社会モデルに対する理解を、比較的分かりやすく説明してくれたのは、モンティアンだけであった。しかもその説明は、「タイの障害者は社会モデルを理論的に説明できない」というもので、いみじくも、筆者のインタビューは彼の主張を裏付ける形となった。社会モデルを比較的単純に、「障害は個人の身体機能の問題ではなく、社会の問題である」という理解は、若手障害者リーダーに見られ、彼らは海外研修などによって社会モデルの基礎を学んでいた。しかしながら、例えば、タイの仏教観において障害の社会モデルはどのように理解されるべきか、社会モデルを基礎としたタイにおける障害者の権利、医療・リハビリテーションのあり方、大家族制における障害者の介助など、具体的な研究はタイでは進んでいないようである。

第7項 タイ障害者運動の限界

タイ障害者運動は、障害者の権利条約に則った障害者基本法の制定やそれに伴う権利条約の批准という大きな成果を上げてきた。国際障害者運動の影響や国際協力支援により実施された活動も多いが、タイ障害者リーダーの絶え間なき努力、長期的な戦略とそれを実行する行動力、法案を通す調整力と政治力など様々な活動の成果だと思われる。しかし欠点を上げるとすれば、「障害者運動に対する理論的な裏付けが乏しいゆえに、タイ独自の障害観、社会モデルの実践の方法、障害者の社会参加のあり方などの議論があまりされてこなかった」ということではないだろうか。障害者の権利意識の向上、法律を制定するという社会改革の方法、デモやキャンペーンによる権利の主張、社会モデルの実践など、タイの障害者運動は北側諸国で培われた知識と経験を比較的そのまま受け入れている面がある。一方で、国民の93%が信仰する仏教を背景とする自国文化に根差した障害観を深めることは、比較的見落とされてきたように思える。また先進国の障害者運動が、リハビリテーションや医療の専門家に対する敵対心や警戒心を持つことから、これまでタイの障害者にとって適切な医療ケアのあり方についてもほとんど議論されてこなかった。さらに自己決定や自立生活における家族介助、地域での支え合い、医者やリハビリテーション施設との関係など、タイの障害者が地域で自立して生活するために必要なことが、きちんと議論されてこなかったのではないだろうか。もし今後も、タイの障害者運動が北側諸国からの知識や経験を元に実施されるのなら、タイ独自の社会に適合した福祉サービスや障害者の社会参加のあり方が見い出されるのかどうか疑問が残る。

*26 2011年12月15日、筆者がバンコク郊外の寺院で行ったインタビューより
*27 2011年12月14日、筆者がバンコク郊外で行ったインタビューより
*28 上座部仏教における「五戒」を指していると思われる。五戒には、殺さない、盗まない、妻(夫)以外と交わらない、嘘をつかない、酒を飲まない、などの教えがある。
*29 「つんぼ」は差別表現と言われるが、彼の返答を正確に表現するには「聴覚障害者」より「つんぼ」の方が妥当だと思われる。
*30 2011年12月14日、筆者がバンコクで行ったインタビューから
*31 2011年12月11日、筆者がバンコクで行ったインタビューから
*32 2011年12月16日、筆者がナコンパトム自立生活センターで行ったインタビューから
*33 2011年12月16日筆者がバンコクで行ったインタビューから
*34 JICAが2002年より支援している技術協力プロジェクト。障害者のエンパワメントとバリアフリー社会の構築を目指している。
*35 2011年12月15日、筆者がバンコクで行ったインタビューから
*36 2011年12月14日、筆者がAPCDで行ったインタビューから
*37 2011年12月16日、筆者がナコンパトム自立生活センターで行ったインタビューから
*38 2007年6月4日、故トッポンのバングラデシュでのスピーチを筆者が要約