第2章 障害者運動のとらえ方

第1節 北側諸国における障害者運動

1960年代後半から1970年代にかけて「障害の社会モデル」を基礎とする新しい障害者運動が北側のいくつかの国で発生している。当時の障害者は、自ら自助団体を作り社会改革を訴え、政策にまで関与している。このような障害者運動は、ほぼ同時期に発生しているが、運動が誕生した経緯や発展過程はそれぞれの社会背景によって異なっている。本節では、イギリス、アメリカ、日本における、特に1970年代からの障害者運動を振り返り、各国の特性と共通性を明らかにする。

第1項 イギリスの障害者運動

1)社会モデルの始まり

イギリス障害者運動史における「障害の社会モデル」の誕生を示す事例として、隔離に反対する身体障害者連盟(Union of the Physically Impaired Against Segregation: UPIAS)の設立を紹介する研究が多い。UPIASは、1972年に障害者の支援施設に反対する障害当事者によって設立された団体である。設立の中心を担った障害者は60年代後半から施設の運営方法に対して反旗を翻し、一時、施設入居者による施設の「自主管理」にまで発展する騒動を起こしている。しかしこれが施設側によって鎮静されると、障害者は却って結束力を強め、施設への抵抗としてUPIASを設立したのであった。UPIASは、「障害者は社会によって抑圧されている」という新しい障害の概念を、彼らの声明書である「ディスアビリティの基本原理」[*4]で社会に提唱している。彼らの考えでは、インペアメント(機能障害)とディスアビリティ(社会的障壁)は明確に分けるべきであり、障害問題の多くは社会によって創り出されているのである。ここで「インペアメント」とは手足の一部あるいは全部の欠損、または身体の組織または機能の欠陥を意味する。また「ディスアビリティ」は、現代の社会組織が身体的インペアメントのある人々のことをほとんど考慮しないために、社会的活動のメインストリームへの参加から彼らを排除することによって引き起こされる活動の不利益や制約のことを言う(UPIAS, 1976:3-4杉野、他訳)。

UPIASが声明を出すまで、イギリスの障害者支援政策は極めて管理的であった。障害者の多くは民間の福祉法人によって管理され施設に収容されていた。そこで障害者の人生を実質的に管理していたのは、障害の専門家として福祉法人で働いていたカウンセラーたちであった。杉野はイギリスの福祉サービスの状況を以下のように説明している。「イギリスの障害サービス、とくに身体障害関連サービスは、歴史的に民間福祉法人によって開発され提供されてきた。(中略)それらは単なるサービス提供者ではなく、サービス利用者である障害者の生き方や価値観までも左右する影響力を持っていた」(杉野2002;263-264)。UPIASが「抑圧」と表現する背景には、これら民間福祉法人の管理が強かったことを示している。

イギリスの障害者は18世紀ころから社会から隔離され周辺化されている。イギリスは18世紀後半に産業クーデターを経験し、人口が農村から都市部へ、産業が農業から工業へと急激に変化している。そして労働者が都市の工場で働くようになると、規則的かつ生産的な労働を要求され、障害者にとって不利な状況が生まれた。その結果、労働市場からはじき出された障害者は、貧困者として施設に収容されるようになった。また医学の発展に伴い、障害者は治療という名目で施設に収容されるようになった(バーンズ2004;35)。こうして施設に収容された障害者を、民間福祉法人が「慈善」という形で管理した。

2)障害当事者の全国組織の誕生

1981年になると、イギリスの障害者運動は新たな局面へと展開する。そのきっかけは、障害者インターナショナル(Disabled Peoples’ International: DPI)の発足だった。DPIは、障害の専門職の団体である国際リハビリテーション協会(Rehabilitation International: RI)が障害者をRIの意思決定機関に入れないことに反発し、1981年にシンガポールで設立された障害者の国際団体である。UPIASを設立したイギリスの障害者は、このシンガポールのDPI設立会議に参加するために、障害当事者7団体によってイギリス障害者団体協議会(BCODP: British Council of Organization of Disabled People)という連合体を発足させた。当時、BCODPは「障害者の団体」と「障害者のための団体」(慈善団体)を明確に区別し、既存の福祉サービスを提供する者、つまり「障害者のための団体」に対する批判や差別反対キャンペーンを実施している。「障害者のための団体」が創り出した、障害者に対するステレオタイプ的で否定的なイメージを覆そうとした。BCDOPはDPIの設立会議でも、障害の問題は社会によって創り出されている、という考えを明確に打ち出し、DPI規約にも反映させている。設立当初わずか7団体だったBCDOPの活動は、その後イギリス全土に広がり、1995年には110団体以上の組織から構成されるようになった(杉野2002;265)。

3)自立生活センターの誕生

イギリスの自立生活センターは、1980年代半ばにハンプシャーとダービーの障害者連合によって設立されている(バーンズ2004;97)。両自立生活センターの設立にはUPIASのメンバーが関与しており、UPIASの運動の流れを引き継いでいる。しかし活動内容や方針には異なる点も見られる。

ハンプシャーの自立生活センターは、障害者施設に入所している障害者グループが79年に始めた「プロジェクト81-消費者管理型住宅と介助」という取り組みから始まっている。このプロジェクトは、スウェーデンのフォーカス計画を参考に障害者自身による介助計画の立案、サービスの供給とコントロールを目指したものである(田中2005;65)。プロジェクトチームは、まずハンプシャー県当局に対し、障害者施設に割り当てられていた予算[*5]を「在宅サービスに転用する」ことを交渉し成功している(バーンズ2004;97)。このセンターの主な事業は、身体介助と情報提供、アドボカシー、自立生活スキルの研修などである。この時の課題は、障害者が介助者の雇用費用を直接政府から受給できないことであった。政府は介助料の支給を認めていたが、障害者が直接受領することはできなかった。これは、1948年の国民扶助法が障害者自身に現金を支給することを禁止していたからである。そこで障害者は、第三者である「施設」を通して自治体からの介助者費用を受け取ることにした。障害者には不満の残る解決法であったが、この方法は96年にコミュニティケア法が制定され、障害者への直接支給が認められるまで、イギリスの自立生活センターに受け継がれていった(バーンズ2004;198)。

ダービーの自立生活センター設置を推進したのは、70年代半ばに始まった「障害者情報相談サービス(Disability Information and Advice Line: DIAL)」であった。障害者が地域で生活するためには適切な情報提供サービスが必要であり、そのためにDIALが設立された。しかし1980年代に入るとDIALは、単なる情報提供サービスではなく、障害者自身によって運営される組織が必要であるとの認識に至り、まず「ダービー州障害者連合(Derbyshire Coalition Disabled People: DCDP)を設立する。DCDPは7つの原則[*6]を決め、民主的な組織であること、精神・知的も含むすべての障害者を対象とすることなどが決められており、6番目に「自立生活と地域に統合された生活を保障するサービスを提供すること」、7番目に「障害者が自らの問題をコントロールすることを支援すること」となっている。この6,7番の原則を実現するために24名のスタッフと124名のボランティアから組織されるダービー自立生活センター(Derbyshire Center for Independent Living: DCIL)が1985年に設立された。センターの主な業務は障害者の7つのニーズ、つまり情報、カウンセリング、住居、福祉機器、個別介助、交通・移動手段、アクセスに応えることであった(田中2005;69-70)。ダービーとハンプシャーの自立生活センターの違いは、ダービーでは障害者の7つのニーズに基づいて、包括的なサービスの供給を施行しているのに対して、ハンプシャーでは個人介助と自立生活技術の訓練に焦点を当てていることであった(田中2005;71)。

4)イギリス障害者差別禁止法の制定

イギリスの「障害差別禁止法(Disability Discrimination Act 1995; DDA)」は1995年に成立している。障害者団体の差別禁止法制定への動きは、1985年の「差別禁止法のための市民団体連合(Voluntary Organization for Anti-Discrimination Legislation Committee: VOADL)」によって始められている。VOADLは「イギリスの障害者と差別(Disabled People in Britain and Discrimination)」や「障害者と社会(Disability & Society)」[*7]などの出版物を有効に活用し、障害者差別が社会に存在することを具体的に訴えている。また同時に、障害の社会モデルに基づいた「障害平等トレーニング(Disability Equality Training: DET)」を実施し、障害者や関係者の意識覚醒を進めている(バーンズ2004;212)。彼らは、80年代後半から90年代にかけて、障害者に対する市民権や交通アクセシビリティなどを要求し「慈善ではなく権利を(Rights not Charity)」と、デモやキャンペーンを実施している。1990年にアメリカで「障害を持つアメリカ人法(American Disability Act: ADA)」が成立し、それがイギリスの差別禁止法制定の動きを後押しすることになった(田中2005;73)。

また別に労働党議員のイニシアティブとして、「障害者に対する不等な制約に関する委員会(Committee on Restrictions Against Disabled People: CORAD)」が設置されている。CORADは、障害者差別を社会の構造的・制度的文脈に位置付け、障害者の権利を擁護する法律の制定を訴え、多くの勧告を行っている。しかし当時のサッチャー政権は、この勧告に対してほとんど共感を示さなかった。労働党議員から最初の差別禁止法案の提出があったのは1982年であるが、その後13年間に渡り本法案は14回否決されている(バーンズ2004;211)。

しかし障害者団体の粘り強い運動や労働党議員の働きかけもあり、障害者が社会で差別されている現状が、社会でも政府内でも徐々に認知されていく。結局、保守党政権は94年に差別禁止法の法案を提出し、95年11月にDDAが成立した。しかしDDAに対する障害者団体の評価は芳しくなかった。彼らは、法案が障害の個人モデルや医療モデルに基づいており、社会モデルの認識が希薄であると批判している。また対象分野が限定的で、差別を防ぐには不十分との指摘もあった。さらに雇用者やサービス供給者は、たとえ法に従っていたとしても、仕事に支障がきたすと示すことができれば責任を免れることもできた(バーンズ2004;212)。一方で、「障害者のための団体」は、法律の施行のために協力することで政府と合意した。これは「障害者の団体」と「障害者のための団体」との亀裂を再び生じさせる一因となった。

第2項 アメリカの障害者運動

アメリカの障害者運動の代表例として自立生活運動を紹介する文献は多い。またイギリスと異なり、福祉制度やサービスに対する批判や抵抗というよりも、公民権運動の一環として障害者の差別撤廃が訴えられているのが、アメリカ障害者運動の特徴である。

1)自立生活運動の誕生

アメリカ自立生活センターの父と呼ばれるエド・ロバーツが、アメリカ初の自立生活[*8]センターをカリフォルニア州バークレーに設立したのが1972年である。彼は14才でポリオを患い障害者となっている。「鉄の肺」と呼ばれたベンチレーターを呼吸補助のために1日に18時間も使用しなければならないほど、彼の障害は重かった。しかしロバーツはカリフォルニア大学バークレー校へ入学する。この時、州政府の職業リハビリテーション資金に財政的な支援を申請しているが、当初州のリハビリテーション局のカウンセラーは、ロバーツに職業的自立の見込みがない[*9]という理由で申請を断った。しかし様々な働きかけによって、最終的には申請が認められ、彼は支援金を介助費用などに充てている。その後、重度障害者のロバーツがカリフォルニア大学に進学したことを聞きつけ、バークレー校には続々と障害者が入学してくるようになった。1967年には12名の重度障害者が在籍し、彼らは、自分たちの生活のバリア(不自由)について考えるようになった。また自立や自助という概念についても話し合うようになった。この時、ロバーツは女性運動の考えを参考にしている。女性運動は、女性に対する社会の固定観念を拒絶し、自分たちの体を自分たちでコントロールしようとしていた。この考えがヒントとなり、ロバーツは「なぜ障害者は医療的な側面からしか捉えられないのか」と考えるようになった。また障害学生たちは、自分たち自身で自分たちのためにカウンセリングやケース・マネージメントができないだろうかと話し合うようになった。そして気づいたのが、専門家に支配されたくない、クライアントでなくサービスのコンシューマー(消費者、利用主体)であるべきだという考えだった(シャピロ1999;80-81)。

障害学生はその後も増え続け、1970年には身体障害学生プログラム(Physically Disabled Students Program: PDSP)が始まった。PDSPは、障害者の大学中退防止プログラムであったが、サービス内容は、カウンセリング、住居探しと手伝い、食事の用意と車いすの移動など多岐にわたり障害学生のニーズを満たすものだった。連邦政府と大学当局から運営補助金をもらい、PDSP事業は大成功を収めている。PDSPが成功を収めると、今度は大学以外からサービスを求めてPDSPにやってくる障害者が増えてきた。ロバーツにとって、学生以外にサービスを提供しない理由はなく、結果として1972年に自立生活センターを大学の外に設立することになった。新しい自立生活センターは当初、資金難に直面したが、2年後には100万ドルの助成金を得ることに成功している。そして活動が全国に展開すると、78年から連邦リハビリテーション局が各州を通して自立生活センターの運営補助金を出すことが制度化されている。その結果として、1999年には全米で400ヶ所以上の自立生活センターが設立されている(シャピロ1999;87-88)。

2)1973年のリハビリテーション法とアメリカ障害者運動

アメリカでは1973年に、障害者の完全な社会参加の確立を意図したリハビリテーション法(Rehabilitation Act 1973)が成立している。イギリスでUPIASが設立される前にアメリカで障害者の差別を禁止する法律が成立していたことは注目に値する。しかしこの法律の差別撤廃条項は、障害者の権利獲得運動というよりも、当時の上院議員スタッフのイニシアチブによるものであった(スコッチ2000;73-78 竹前訳)。スタッフは公民権運動の観点からも障害者差別が不当なものだと考えていたし、また具体的に、障害者の職業リハビリテーションが終了しても、雇用主の障害者に対する差別や偏見によって障害者が雇用されなかったとしたら、法律の意味自体がそもそもなくなるのではないか、ということを懸念していた。その結果として、教育機関など連邦政府から資金を得ている事業者に対し、障害に基づく差別を禁止する504条を加えることとなった。この504条は、連邦議会でほとんど議論をされずに満場一致で承認されている(スコッチ2000;73-78 竹前訳)。

しかしリハビリテーション法が成立して3年が経っても、法律の施行規則はなかなか公布されなかった。施行規則が公布されないと、リハビリテーション法は実質的になんの意味も持たない。だが政府は、予算が掛かりすぎるという理由から公布の遅延を画策していたのだ。そしてついに障害者は抗議活動を開始した。まず1977年4月に、「アメリカ障害をもつ市民連合」(the American Coalition of Citizens with Disabilities)が、当時の健康教育福祉省長官カリファノの自宅に真夜中に向かった。次いで、首都ワシントンで座り込みデモを実施し、健康教育福祉省を300名の障害者で占拠した。このデモは直ぐに解散に追い込まれるが、サンフランシスコの健康教育福祉省地方局の座り込みデモは25日間続き、全米から注目を集めた。デモ参加者の中には重度障害者も多く、カテーテル(導尿管)や呼吸器のスペア交換、また床ずれ防止など様々な介護を必要としていた。しかし外部との交信を絶たれ、介護サービスも福祉機器もなく、まさに命がけで講義活動に参加していた。カリフォルニアからはエド・ロバーツを初めとした重度障害者が抗議活動に駆けつけている。結局、健康教育福祉省長官のカリファノが504条の施行令に署名することでデモは集結した(シャピロ1999年;103-109)。

激しい抗議活動ののち、なんとかリハビリテーション法の施行規則が公布されたが、実質的な効果は限定的であった。特に司法判断において何を「障害者差別」と見なすのかは未確定であり、訴訟を通して障害者の権利を確立していく戦術は上手くいかなかった(杉野2007;165)。実際80年代に入っても、アメリカの障害者は外出すらままならないことがあった。映画館で入場を拒否されたり、雇用主から不等な扱いを受けたり、学校で入学を拒否されたりすることがあった。障害者で一度も外出せず買い物にも行ったことのない人が13%もいた(シャピロ1999;160)。障害者は、504条ではなく、より包括的な差別禁止法の確立を望むようになった。

3)アメリカの差別禁止法の成立

1990年に成立した「障害を持つアメリカ人法(American Disability Act: ADA)」の法案は、1988年に全米障害者評議会によって議会に提出されている。この評議会には障害を持つ弁護士も参加していた。しかし最初の法案は議会に全く相手にされなかった。そこで修正案が作成されることとなる。今度は企業などに受入れやすいように保守的な法案となった。例えば建築物のアクセシビリティについて、新しく建築される建物はアクセシビリティを求めたが、その他の古い建物は除外された。しかしそれでも企業には、コストがかかり過ぎるという懸念があった。しかしリハビリテーション法の経験から、①思ったよりコストは掛からないこと、②事業主に過大な負担がかからないよう障害者に対する合理的な配慮しか望んでいないこと、③企業が障害者を顧客として捉える見解が広がっていたこと、などから議会における反対は思いのほか少なかった。

ADA成立の裏側には,多くの隠れた支援者も存在していた。彼らの多くは肉親などに障害者を抱えており、障害者の権利を保障する法律の制定を願っていた。その中には連邦議員も何人か含まれていたし、ジョージ・ブッシュ元大統領も、親類や自身の子供の障害や病気による痛みを経験していた。彼は障害者問題に対して元々あまり関心を示していなかったが、大統領選挙の時には「障害者が社会のメインストリートに参加できるようになるためなら、私はどんなことでもやる気です」と宣言している(シャピロ1999;185)。またADA成立のため、それまで別々に行動していた障害者団体・支援団体も協力することになった。例えば、脳損傷者の団体や視覚障害者の団体、知的および精神障害者の団体などが、障害者の差別への闘いという点において協力して運動した。そして約180の団体がADA第2案を指示した(シャピロ1999;187)。結局、ADAは1990年7月に障害者、家族、政治家、専門家などの幅広い連帯により成立している。成立後の施行令策定にもあまり時間が掛からなかった。

第3項 日本の障害者運動

1)青い芝の会に代表される社会モデルの考え方

日本でも「障害は社会の問題」と捉える障害者運動が60年代後半から70年代前半に発生している。イギリスやアメリカの障害者運動とはまた異なる文脈で、独自の展開を遂げている。

日本の障害者運動史で、社会の固定観念を強烈に否定し、最もラディカルな問題提起を行った運動としてしばしば紹介されるのは「青い芝の会」である。「青い芝の会」は脳性マヒ者の集団であり、1957年に東京で発足している。最初は同じ障害を持つ者が集まる自助団体にすぎなかったが、1970年の障害児殺害事件[*10]をきっかけに運動は急旋回をとげる。「福祉施策が不十分であるからといって障害児殺しが正当化されえぬことはもちろん、そこで言われる福祉それ自体が、施設への隔離・管理というかたちで障害者を社会から排除・抹殺する棄民政策に他ならない」(倉本1999;222)と彼らは主張した。彼らの「行動綱領」もまた個性的であり、強烈に健常者社会を否定している。例えば「われらは健全者文明が創り出してきた現代文明がわれら脳性マヒ者をはじき出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中からわれら独自の文明を創り出すことが現代文明を告発することに通じることを信じ、且つ行動する」(倉本 1999;223)という綱領がある。彼らはこの「行動綱領」に則り、妥協を許さない行動で自分たちの主張を展開する。例えば、車いすによるバスへの強行乗車や占拠闘争、福祉施設事務室のバリケード封鎖などであり、あまりにも過激すぎて社会から非難を浴びるだけでなく、障害者からも嫌悪感を示されたこともある。一方で、多数の同じ境遇をもつ障害者には共感もされた。健常者を罵倒し互角に渡り合う姿は、これまで自分を否定されてきた障害者にとって大きな影響力を持った。この時、多くの数の障害者が「青い芝の会」に合流している。

また「青い芝の会」の主張は、当時のイギリスやアメリカの障害者運動と比較しても先進的な事例と捉えられている。例えば、杉野は以下のように説明している。「『反施設』の主張は、英米の脱施設化運動や自立生活運動ともほぼ同時期に提起されているし、バス乗車闘争などはアメリカの公民権型のアクセス権運動に匹敵するものである。また『反優生思想』や『能力主義批判』の主張は、北欧のノーマライゼーション思想が日本に紹介される以前の『日本的ノーマライゼーション思想』と呼ぶべきものだろう」(杉野2007;221)。

2)府中療育センター闘争

「青い芝の会」とは別に健常者社会の抑圧に対する抵抗運動として、「府中療育センター闘争」と呼ばれるものが1970年に起こっている。この闘争は、非人間的な施設処遇を告発する抵抗運動であった。非人間的な施設処遇とは、監視カメラの設置、外出や外部との通信の制限、身体的プライバシーを侵害する設備環境や異性介助、入所時に強要される「解剖承諾書」への署名や全裸写真撮影等である。障害者は処遇改善に向けハンガーストライキも決行し,交渉は3年に渡った。一応の処遇改善を勝ち取った障害者は、その後、ふたつのグループに分かれている。ひとつは、施設の処遇改善を求め続け施設運営に発言権を有する自治会を設立しようとするグループ。もうひとつは、施設を否定し地域での生活を求めるグループであった。地域における障害者の生活を求めたグループは、環境改善のため介助料の要求運動へと活動を展開していくこととなる(田中2005;38-39)。

3)社会改革の要求

1970年代半ばから、障害者グループはより具体的な社会環境の改善へと活動を展開していく。障害者の生活基盤を支える介助、所得、雇用、住居等に対する運動や、街の構造や交通機関に対するものであった。街づくりに関するものは、すでに1960年代後半から始まっている。1976年には川崎市の障害者に対するバス乗車拒否を契機に川崎バス乗車闘争が発生し、20数時間に及ぶバス内での籠城は多くのマスコミにも取り上げられた。また1970年代には、障害種別を越えた障害者の全国的な連帯も始まっている。「障害者の生活保障を要求する連絡会議」が1975年に発足、加盟団体は24団体総員2万人であった。翌年「障害者解放全国連絡準備会」も発足し、障害者の差別からの解放と自立をスローガンとして活動を開始している(田中2005;41-42)

4)自立生活センターの始動

日本の自立生活運動は1980年代に本格的に始まっている。79年と81年には、アメリカで自立生活センターを立ち上げたエド・ロバーツが来日し講演が開かれ、83年には日米障害者自立生活セミナーが全国の6都市で開催されている。86年には、「障害者が福祉サービスの受け手から担い手へ」というコンセプトを初めて実践する本格的な自立生活センターとして「ヒューマンケア協会」が八王子市に設立された。その後、自立生活センターは毎年5~10ヶ所のペースで設立されている。活動を初めて10年たった1996年には、市町村障害者生活支援事業の事業主体として委託を受け、正式に福祉サービスの供給主体として制度的な承認を得ている(田中2005;44-46)。活動を開始した当初は、資金も乏しくボランティアに頼ることも多かったが、制度的な承認を得たことで財政も比較的安定している。

日本の自立生活センターは、「1980年代にアメリカから導入された」と紹介する文献もあるが、実際にはそれ以前に日本でも活動が始められていた。まず70年代初期から「自立生活」という言葉で、アメリカのIndependent Livingと近い意味の自立が謳われている(立岩1999;88)。彼らは、施設におけるリハビリテーション職や医師などの専門家を批判していたし、施設そのものも批判していた。またヒューマンケア協会が設立10年の節目に活動を振り返ったレポート「自立生活センターの誕生」を見ても、彼らがアメリカの手法をそのまま持ち込んでいるとは考えにくい。日本の社会情勢や障害者に合わせた工夫が随所に見られる。設立中心メンバーである中西が、アメリカ自立生活センターの視察をしたのは、設立わずか3ヶ月前であった。この時中西は、日本でも活用できる手法や考え方を確かにアメリカから持ち帰っているが、参考にならない部分はばっさりと切り捨て、日本独自の方法を取り入れている。例えば、介助者と利用者のコーディネートには、アメリカではなく神戸の方法を取り入れているし、自立生活プログラムもアメリカの方法はマニュアル化されていなかったので、日本の実情にあったプログラムを設立メンバーで作成している(ヒューマンケア協会1996;1-13)。だからといってアメリカの影響が少ないというわけでもない。自立生活プログラムやピア・カウンセリングを始めた設立時のメンバーの多くは、設立前にダスキンの研修プログラムでアメリカに留学し、自立生活センターを学んでいた。また設立後も積極的に海外研修を実施したため、日本の若手障害者はアメリカの自立生活センターから多くのことを学んでいる(ヒューマンケア協会1996; 14-27)。

日本とアメリカの自立生活の違いとして、杉野は「障害者の自己決定」の意味合いを指摘している。アメリカでは、州のリハビリテーション局の専門家が障害者のリハビリ計画や介助費用の支出などについて決定権を持っていた。その決定権に対し、「彼らが決めるのではなく、自分たちで(リハビリ計画などを)決める」という意味での自己決定だった。一方、日本における「障害者の自己決定」は、一般的な文脈で語られることが多い。その為、障害者の自己決定に対して「障害者が言うことなら全て正しいのか」といった反問がなされる。これは杉野(2007;258-259)によれば、日本の措置行政の下での「利用者」概念の希薄さと、サービス供給法人のアカウンタビリティの低さ、といった歴史的社会的制約から生まれている。つまり日本における障害者の自己決定とは、「全てにおいて障害者が自己決定すべきである」という文脈で受けとられ、「うるさい客」のように見られてしまう。しかし、これはアメリカにおける自己決定の意味を理解しないまま、日本に言葉だけが持ち込まれ使われているからだと杉野は指摘する。

5)政策への関与 - 法律の制定

日本の障害者団体は80年代に入ってから、障害当事者の発言権や決定権を求める要求活動として政策への関与を強めている。1995年には、「障害者政策研究全国集会」が開始され、全国規模の障害者団体が参加し、自分たちに必要な政策について研究発表を行っている。この集会は毎年実施され、2011年10月で第17回目を迎えている。また自立生活センターも市町村の委託事業主として、地域生活支援の政策提言を担うようになった。80年代の障害者運動の政策に関する主な対象は、労働問題(特に労働権の保障と雇用機会の獲得)、アクセスをめぐる争点(交通アクセスや建物のバリアフリー法)問題などであった。

日本では差別禁止法がまだ制定されておらず、現在、障害者を交えて検討中である。

第4項 北側諸国における障害者運動の特性

これまで見たように、イギリス、アメリカ、日本の障害者運動は、1960年代後半から70年代にかけてほぼ同時期に発生し、その後、社会改革として運動を展開していく。本項では、運動の共通性と独自性に注目し、3ヶ国の障害者運動の特性を明らかにする。

まず共通性として、障害の社会モデルを基盤とする障害者運動の始まりは、既存社会の障害観や社会福祉制度に対する批判や反発、社会への告発という形をとった。これは特にイギリスと日本において顕著である。イギリスではUPIASの告発であり、日本では「青い芝の会」に代表される健常者社会への否定である。両国とも、福祉制度としての障害者支援施設が過度に障害者を管理し、抑圧になっているという現状を社会に訴えている。また同時に、当時の社会における障害者のイメージ、障害者を弱者と決めつけるマイナスの固定概念を、障害の医療モデルや個人の悲劇モデルと位置づけ強烈に批判している。施設管理や障害のマイナスイメージによって障害者は弱者とされている、と考える彼らの主張に、日本とイギリスの共通点は多い。他方アメリカでは、施設や固定概念に対する批判というよりも、公民権運動の観点から人種的マイノリティーの黒人や女性差別と同じ文脈で障害者差別を捉えることが多い。つまり障害者も一種のマイノリティーグループとして捉えられ、その差別を軽減する方法として平等な権利を主張している。

次に障害者運動の展開として、アメリカの障害者運動は、自立生活運動が大きな役割を占めている。アメリカでは、障害学生の自助グループの活動が自立生活センターへと発展している。最初の自立生活センターが1972年に設立され、その後400ヶ所以上に展開していることから、時期的にもイギリスや日本より早く、規模的にも最大である。他方、イギリスと日本は1980年代中ごろに自立生活センターが本格的に活動を開始し、両国とも施設入所者が中心となり、地域で暮らす術を探していく点が共通している。また両国ともアメリカの自立生活センターを参考にしているが、国独自の展開も見せている。例えば、日本では自己決定の意味合いがアメリカと異なっている。イギリスでは自立より社会への統合を目指す傾向がある。しかし3ヶ国に共通している点は、既存の福祉制度を介助費用や自立生活センターの運営費として活用してきた点である。アメリカのエド・ロバーツは職業リハビリテーション資金を利用していたし、イギリスでは施設への割り当て予算を自立生活センターへ転用していた。日本では障害者基礎年金を使い障害者が介助料や生活費を賄い、センターの運営は賛助会員の獲得や助成金の申請、また出版物の売り上げなどで賄っていた。そして現在では、政府の公的な支援制度のひとつとして、自立生活センターは各国で認められている。

自立生活センター以外にも、障害の社会モデルを基盤とする障害者運動が、デモやキャンペーン、時には激しい抗議行動を伴い、各国で展開されていった。アメリカは、障害者の差別を禁止するリハビリテーション法が1973年に制定されているが、施行規則の公布が遅れ25日間に渡る座り込みデモが実施された。日本でもバスの乗車拒否に対する抗議行動や施設の改善運動があり、イギリスでも差別撤廃を求めるキャンペーンが実施された。

そして障害者運動は、政策への提言、法律の制定へと運動を展開していく。アメリカでは1973年のリハビリテーション法が存在し、その不備を補う意味でも次の法案作りが比較的早くに進められた。法案成立の要因は障害者運動を通じて障害者差別に対する社会の理解が進んだことが大きかった。障害者の「慈善ではなく権利」をという要求は政治家にも少なからず理解された。またリハビリテーション法の経験から、差別禁止に対するコストも思ったより少なかったことが、企業による差別禁止法の受け入れを促した。

イギリスでは差別禁止法の動きが80年代半ばから活発になった。障害者と政治家による両方のアプローチが見られるが、法案は13年間にわたり14回、議会で否決されている。それでも障害者運動による差別や偏見の啓発、また障害平等研修などを経て、社会や政治家の理解が進んでいる。1990年にアメリカが差別禁止法を成立させたことも影響し、1995年に差別禁止法が成立した。しかし、当時は障害者団体からの不満が多かった。

日本においてアメリカ、イギリスと最も異なる点は、恐らく障害者に対する社会の理解が進んでいない点だろう。70年代から80年代にかけて障害者運動が過激だったこともあり、社会からだけでなく障害当事者からもじゃっかん煙たがれた側面があることは否めない。2012年1月現在で、差別禁止法はまだ制定されていない。

以上から考えると、3ヶ国に共通する障害者運動の展開は次の3段階を経ている。1)既存社会の障害者に対する差別や偏見、および健常者によって創られた福祉制度に対する反発、そして社会への告発、2)障害の社会モデルに則った社会改革の要求と自立生活運動の発展、3)政策への関与と法律の制定である。各段階における障害者団体の取り組みは、各国の社会,文化、政治状況等により異なっているが、一通り上記3段階を経ていると言っても良いと思われる。

また各国ごとの差異として、「障害の概念」「障害者の自己決定」「専門家否定」の意味などが異なっている。イギリスにおいて「専門家否定」は、特に民間福祉法人における障害専門家に対する否定から出発しており、障害者としての自分の生活を専門家に管理・監督されたくないという強い憤りが存在する。アメリカの「専門家否定」も、州政府のリハビリテーション局に強く向けられており、州政府が定める介助料や職業リハビリテーションのあり方などについて、「決めるのは障害者であり、カウンセラーではない」という明確なメッセージが込められていた。つまり、リハビリテーションや生活全般に関わる決定権が、政府や福祉法人にあるのではなく、障害者である自分にあるとするものである。

これに対して日本では、イギリスやアメリカと同様にリハビリテーション専門家などに対し「決定権は障害者にある」とする主張もあるが、その場合の境界や標的が限定的なものではなく、むしろ「全ての決定権は障害者にある」と受けとる関係者が多いと指摘されている。

社会モデルの捉え方も異なり、イギリスでは障害を「社会の障壁」と捉え、「障壁を除去する」ことによって「障害も取り除かれる」と考える傾向が強い。また障害者の隔離や周辺化は、資本主義社会の台頭による産業化の流れで捉えられている。一方アメリカでは、障害者差別を公民権運動の流れから捉えるため、障害者をマイノリティー集団のひとつとして、一般市民との平等な権利を要求する流れが強い。そして障害者の周辺化は差別から生じると捉えられている。日本の障害観は、アメリカやイギリスの影響を強く受けている。しかし両国における専門家否定や自己決定をそれぞれ正確な文脈で理解している人は少ない。また社会モデルの考える障害者差別が社会の中で広く認知されていない。障害者は相変わらず弱者であり保護される客体と捉えられるのが、一般的な理解である。しかしだからといって、日本の社会モデルを基礎とした障害者運動がイギリスやアメリカより遅れていた訳ではない。自立生活という概念も、障害を社会の問題とする考え方も、両国から紹介される前に日本には存在していた。

第2節 研究課題の設定

前節においてイギリス、アメリカ、日本の障害者運動の展開をあきらかにし、その共通性と独自性を分析した。以下では、その共通要素を準拠枠として、それに沿ってタイの障害者運動の歴史的展開を調べ、その独自性を明らかにする。具体的には次のような研究課題設定となる。

1)障害の社会モデルを基礎とした障害者運動の始まり

タイ障害者運動が、イギリスや日本のように「既存社会の障害観や福祉制度に対する批判や反発、社会への告発」という形で始まっているのか。もし始まっているとすれば、タイ障害者運動が批判し、告発したものはなんだったのか、またもし異なる形で始まっているならば、その背景や理由はなにか、ということを明らかにする。

)タイ自立生活運動の始まりと発展

タイの自立生活運動はいつ頃、どのような形で始められたのか。例えば、日本やイギリスでは、障害者施設で管理・抑圧されていた障害者グループが、地域での生活を希望したことから始まっている。一方アメリカでは、障害を持つ大学生の支援活動から自立生活運動へと発展している。また自立生活センター発足後、イギリス、アメリカ、日本では、センターの運営費や障害者の介助費用に政府の公的資金が利用されているが、タイの自立生活センターはどのように予算を確保して活動を実施しているのか、など明らかにする。

3)障害者の政策関与と法律の制定、政府の反応

既存社会に対する告発、自立生活運動の始まりや障害者の社会改革への要求などを経て、障害者は政策へと関与するようになる。アメリカではリハビリテーション法に対する不満から、障害者の差別禁止法を求める声が高まっている。また啓発活動の成果によって社会の障害者に対する理解も深まった。イギリスでも障害者の差別を指摘する出版物の発行などにより、徐々に障害者差別に対する社会の理解が進み、差別禁止法にも反対していた政府も、徐々に障害者の主張を理解した。タイでも2007年に障害者法であるエンパワメント法が制定された。タイでは障害者運動がこの法律にどのように関与し、法律を成立させたのか明らかにする。

4)障害者運動の展開

イギリス、アメリカ、日本では、各国に独自性が見られるものの、障害者運動の展開として、1)既存社会の障害者に対する差別や偏見、および健常者によって創られた福祉制度に対する反発、社会への告発、2)障害の社会モデルに則った社会改革の要求と自立生活運動の発展、3)政策への関与と法律の制定、という過程を経ている。一方タイにおいて、障害者運動はどのように展開されたのか、北側諸国との共通点や違いを明らかにする。

5) 障害の社会モデルに対する理解と障害者運動の限界

「障害の社会モデル」がタイでどのように理解されており、また実践されているのか、まず古典的なタイ社会の障害に対する考えを明らかにする。次いで、社会モデルが紹介されたあとに、タイ障害者リーダーの間で社会モデルがどのように理解され、実現されているのか明らかにする。特に、社会モデルにおいて度々批判の対象となる医者やリハビリテーション専門家に対する考えと、また逆に、社会モデルにおいて尊重される、自己決定や権利などに対するタイ障害者の考え方を明らかにする。

*4 UPIASの声明書「ディスアビリティの基本原理」には次のように記載されている。「私たちの考えでは、身体的にインペアメントのある人々を無力化するのは社会なのである。社会から不必要に孤立させられ、社会への完全参加が阻まれることによって、私たちはインペアメントに加えてディスアビリティを課せられている。したがって障害者とは、社会の中で抑圧された集団なのである」 (UPIAS, 1976:14 杉野他訳)
*5 政府の自立生活基金(Independent Living Fund)と地方自治体独自の財源(田中2005;71)
*6 7つの原則とは1)民主的な代表制に基づく組織であること2)身体障害、精神障害、知的障害等のすべての人々を対象とすること3)障害者のセルフ・ヘルプとその活動を支援し奨励すること4)健常者の支援者の参加を可能な限り認めること5)障害者の直接的な体験に即して活動すること6)自立生活と地域に統合された生活を保障するサービスを提供すること7)障害者が自らの問題をコントロールすることを支援すること(田中2004;69-70)
*7 田中は「障害者と社会」を重要な出版物としてあげているが、バーンズは「イギリスの障害者と差別」を上げている。いずれにしろ、障害者差別を社会に訴える上で出版物は貴重な役割を果たしたと考えられる。
*8 自立生活とは、いわゆる経済的/職業的な自立ではない。障害者が新たに提唱した自立概念であり、自己決定権の行使を自立と捉える考え方である。「障害者が介助者のケアを必要とするとしても、自らの人生や生活のあり方を自らの責任において決定し、また自らが望む生活目標や生活様式を選択して生きる行為を自立とする考え方」(定藤1993;8)である。
*9 職業リハビリテーション資金は、就労の見込みがある比較的軽度な障害者に支給されていた資金なので、ロバーツのような重度障害者はそもそも支給対象とされていなかったし、また重度障害者が大学に行っても就労の道はないと考えられていた(杉野2007;185)。
*10 1970年5月に母親が自分の子供の障害を苦に、子供を殺害してしまう。「この事件では、加害者である母親に対し、近隣の住民や同じように障害児を持つ親らを中心に、減刑を嘆願する運動が起こった。福祉施策の不備が母親を子殺しへと追い込んだのであり、その意味では母親もまた被害者であるとの理由からである。しかしこれに対し青い芝の会の神奈川県連合会は減刑反対のカンパニアを展開する」(倉本1999;222)